【京極堂】
『中禅寺家の一族(解決・後編) 』
にゃんにゃんと。
始めはそれだけであった。それで充分だった。
全員の視線がピンクの可愛い携帯に注がれる。
にゃんにゃん。にゃんにゃん。
にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃん。
にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃーーーー!
あまりの煩い猫撫で声に、雪絵さんも飛び起きてフーッと言い出す。
夏美が携帯を奪い取る前に、京じいの細い手がさっとひるがえった。
断りもせずにパカと開ける。
誰もがアッと口に出す間。目にも止まらぬ早さで指が動いた。
にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃ!
止まった。
機械など触ったことがないと思われていた京じいが、さらに素早い動作をする。
夏美はあうあう言うばかり。周囲の大人はあああと言うばかり。
――――恐ろしい。
日が暮れてますます暗くなった和室で、老人が一人、携帯を黙々と操作しているだけなのに。
それを大の大人が五人、子供とは言えない年になった二人の孫が見てる。
しかし、誰も口を開かない。口を利くことができない。息が苦しいくらいにその場の空気が重い。
たった十畳の狭い部屋に、押し込まれているからか。
それともこれが、
憑き物落としだからか――――。
ふざけるな。
僕らには誰の呪いも効かぬように、長年延々とぐだぐだとネチネチと、くだらない話を聞かせてきたというのに。
全然効いてないぜ、じいさん。
みんなすっかりあんたのペースに巻き込まれてる。
一体なんの目的があって、こんなことをしてるんだ?昔から中禅寺家はじいさんの言葉でいっぱいなんだ。
これ以上僕たちを苦しめないでくれ。
楽にしてくれ。
言葉でかけられる呪いなんて、この世には存在しないのだろう。
――――助けてくれ。
僕が柄にもなく泣き落としにかかろうとしたそのとき、父・龍彦が膝をついた。
僕は、こんなに動転している親父を初めて見る。
「お、お、お父さん。何をしてるんですか」
裏返った自分とそっくりの声に、捜している、と京じいが無表情に答えた。
老人にはほとんど表情筋がない。何を考えているのかわからない目の上に、深く刻まれた歳月の重みだけがその感情を伝えていた。
だがおかしい。
夏美の作ったブログは、数々のフォームメールからサイトに飛べるよう設定されている。一分もかからず見つかるはずなのに。
我々が固まって、一言も発せぬうちに。
ああッと歓喜の声が京じいの口から洩れた。
「見つけた、見つけたぞ!これだな、関口君っ?」
あ?え?と治らぬ失語症のままで関じいは応えた。
京じいは構わず、その場に胡座をかいて熱心に画面を見始める。
たちの悪い催眠術が解けたかのように、時計の針の音が遠ざかった。
猫が膝に乗ろうとするのを、足裏で押しのけ、京じいの目は携帯画面に釘づけだ。
奈津子叔母さんがごくりと唾を飲み込み。あの、お父ちゃ……?と言いかけて、もう一度言い直した。
「――――お父さん!どういう理由か聞かせてくださらないと。私たちには何がなんだか」
「奈津子、よくやった。あのブログに関口君の創作日記を送らせただろう。賛成・反対メールが一斉に届いた」
京じいはピンクの携帯を振り回した。
「そこからサイトに飛べたのだよ。関口君が親切にも、世の老人創作者のため、自分のサイトを晒したおかげで!」
は。サイト?と叔母さんが眉をしかめ、アッと頬を赤らめた。
あたふたと関じいのことを見る。
今日、最初にブログを見させられたときは、そんなものはなかった。
関じいが、いまごろ自分の名前を認識したのか、う?と猿のような声を返す。
ひょっとして、さっき打ってた文章はそのサイトのためだったのか!
関じいはたまにではあるが、僕が覗くとすぐにメール送信をするときがある。
それにしたってサイトって―――何のサイトだ。
敦夫叔父さんが突然声を荒げた。
「ええっ。まさか、伯父さんの言ってるのって、関京…………っ?」
なんだそれは関京戦のことか、と父が言って頭を抱える。
わからん、わからない俺に誰か説明しろ、と。
僕は夏美と顔を見合わせた。
関京。
関口×京極堂。
関口巽×中禅寺秋彦。
こくりと互いにうなずく。間違いない。
だが、サイトとはどういうことだ。
関じいは頼りなげに体を揺すっているし、京じいは携帯に夢中である。
夏美を再度振り返ると、不思議そうな顔で首を一つ振った。何も知らないということだ。
老人になった親父の背中を越えられず、意気消沈している僕の父も除外してよさそうだ。
母さんが言った。
「お養父さん、いえ。ああ――――中禅寺のおじいちゃん。まさか目当てって。今日、私たちを呼び出したのって、夏美ちゃんのブログのことじゃなくって」
関京か――――!
京極堂こと中禅寺秋彦こと古本屋こと拝み屋はこっくりうなずいた。
「酷いったらない。関口が携帯小説を始めてこの方二年、確実にその噂を、嘴の軽い鳥口君から聞き出しては捜してきたんだ。直接聞いたって教えちゃくれないだろうし」
「え。あ、き、君。それ読みたかったのか…………?」
関じいがハタと正気に戻って言った。忘れられた最後の蝋燭がふっと消える。
電気をつけたのは京じいであった。ピンクの携帯電話を握りしめ、やや眩しい明かりをさらに強めるツルッとした頭の先まで赤くなる。
「――――当然だろう。見たまえ」
母たちがハタキをかけていた周囲の本の大半が、キラキラと鮮やかな薄いハードカバーそのすべてが
楚木イツミの本だった。
「僕は君の言葉の呪いにかかっているんだ。邪魔しないでくれたまえ、関口君。この呪いの解き方はひとつ」
君が電波で発信した活字を、残らず読みつくすしかないんだ――――と。
京じいは頬を染めて可愛く言った。
なんなのだ。
可愛い?まさか!
これは…………これが呪いの正体なのか。
中禅寺家の言葉の呪いではなく。
嗚呼。
ばっちりかかってしまった。
じいさん二人が見つめ合う周りに、華が咲いて見える。
その名も恋の花。
「京極堂……いや、中禅寺」
「秋彦と呼んでくれていいんだ、巽君」
「い、一緒に住もうと言ったのは本気かい」
「もちろんだとも。サッカーなんてしたら持病の癪に障るから、同じ玉遊びならゲートボールなんてのはどうだい」
別の玉遊びならまだ現役だよ、と関じいが言ったので、我に返った。
全員の憑き物がその一言で――――落ちた。
人を震えあがらせる拝み屋だけが、新たにかけられた呪に気づかず、気づいていても和えて掛かる。
自分から落とす必要のない言葉を、関口から得たのだ。
そっちの一言がなんだったのかは、これ以上、気味が悪くて打ちたくない。
夏美がひぃぃと声を発し
脱力感で敦夫伯父さんが畳の上に倒れはいずり回りつつ
父が雪絵さん、雪絵さん、駄目だ危ない世界に浸っては、と言って猫をひしと抱きしめ
呆れた母と叔母は出涸らしは入れ直してきますね、と立ち上がり
爺二人を残して全員がその場から逃げ出した。
後ろ手に振り返ると、元から猫背の小男だった関じいに、背筋は伸びているが毛の薄くなった京じいが抱き着いていた。
そのまま畳に座って、二人仲良くきゃっきゃっと夏美の携帯を見始める。
僕はなんだか情けない気持ちになり、父の手から抜け出してきたらしい白猫を中に入れぬよう、勇気を持って抱き上げた。
夏美が、ごめんね関口。やっちゃったねテヘと首を傾げる。
不覚にもその仕草が可愛いと思って、僕は自分が正常であることにほっとした。
「あれ。猫大丈夫なの?」
「――――雪絵さんはね」
「ふぅん。あ、ご飯京極堂で作るってママが。榎さんが騒いでてねぇ、お腹ペコペコの」
「ポコちゃんはよせよ。男同士は懲り懲りだ」
ペコちゃんはスカート履いてなくても女の子ですっ、と夏美が雪絵さんを奪い取る。僕はビクッとした。
言い忘れていたが、実はこの白猫も雄である。雪絵さんに対して京じいは含むところが確かにあったのだ。
蕎麦屋の雄猫と仲が良いのだから!
にゃんにゃん。
終
prev | next