【京極堂】
『中禅寺家の一族(解決・前編) 』
座敷に戻るのは全く気がすすまなかった。
いっそこのまま逃げるのが一番だと思ったのに。関じいが、急かす癖に廊下につまずいたりするもので、危なっかしくて見てられない。
「京極堂は何を考えているんだ」
はっきりとそう言ったので、僕はおやと思った。
関じいの性分なら、すぐに彼岸行きになってもおかしくないのだが。
玉の汗をかきながらも、関じいはすごく怒って見えた。
座敷までがやけに遠い。しかしその前に来ると、僕はううとかああとか、およそ言葉とは思えない音を発して、つい回れ右をしそうになった。
中は妙にしんとしている。
関じいの白い手が、僕の手首を掴む。
怖いのかと見下ろすと、明確な意思の表れに顎をしゃくった。
――――違うんだ。闘うぞと言っている。
では僕も行くしかない。
そっと襖を開けると、そこから先は異空間のように寒気がした。
六芒星の印のついた黒い羽織りと黒い着物に、室内なのだがなぜか赤い鼻緒のついた下駄姿の。
中禅寺家の一族が揃っていた。
夏美と僕は普通に私服だが、親父・龍彦を含む中禅寺家の子供たちは皆例の恰好をしている。
拝み屋四人衆、見参といった風であった。
仕事着としては向いていない。どう見てもコスプレ大会にしか見えない。
全員揃って京じいのお下がりである。母さんたちは仕立て直したのだ。
遮光カーテンを締め切った座敷には、なぜか怪しげな蝋燭が周囲を照らしている。
その中で意味のない威圧感を醸し出しているのは、四方をぐるりと囲んだ書物の山ではない。
――――真ん中に立つ京極堂こと中禅寺秋彦だ。
かれこれ三時間も祖父の術を無に還すべく、中禅寺の子供たちは一様に険しい表情で正座していた。
しかし僕は知っている。全員の頭の中には、――――茶番は終わりにして一刻も早く日常に戻りたい――――しかないことを。
京じいは除く。
足元で正座している孫娘を、あの眼光鋭い目で射抜くことに忙しいからだ。
「夏美」
「は。はいぃぃぃい!なんでしょう、おじいさまっ」
夏美は半ば泣き顔であり、目が虚ろにさ迷っていた。
女の子であることを考慮して、京じいの本格的なお説教をあまり聞いたことがないのである。
その割には免疫というか抗体が出来ている。さすがに中禅寺の一員だ。
京じいは裏の仕事を、千鶴子おばあちゃんが亡くなってからすっぱり辞めたが。
ときどき長丁場のお説教に関してだけ、この扮装を好む。
無駄に迫力が増すのを知っているのだ。
中禅寺の面々も予めそれを計算に入れ、京じいに夏美のサイトがバレたとわかるや否や、全員が戦闘態勢に入った。
想像してみてほしい。
それでなくても急で眩暈の起こるあの坂を、黒い着物のいい年こいた中年軍団が通るのだ。
家族会議は皆が避けたかった。古本屋・京極堂には最近めっきり人が来ない。
――――うちはご近所から宗教団体と間違われていた。
京じいは着物の裾を払った隙に、座卓の上のピンクのデコ電を取った。夏美がああっと手を延ばす。
びし、と京じいが手の甲で軽くいなした。お供え物に手をつけた幼子を叱責する程度のことである。
それを見て敦夫伯父さんがカッとして立ち上がり、
「おんあぼきゃあべえろしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん!伯父さん。いえお養父さん。いいやこの糞爺。娘に手を挙げたら、僕は赦しませんよ。縁を切ります。勘当します。今日こそ姥捨山です!」
――――意味不明である。
黙れあっくん、と僕の父親がいった。敦夫伯父さんの膝を押さえ、正座し直させる。
まともに話をするのかと思いきや、ハッと顔色を一気に変えた。
「雪絵さん!その鬼から離れるのだ。貴女の美しい白い毛並みが傍に近寄るだけで汚れてしまう。なっちゃん、雪絵さんを、雪絵さんを、まず!」
は。はい、先程から努力してるんですがぁ、伯父さま。猫たんはおじいちゃまの足にしがみついて離れないんですぅとボショボショ、夏美が言った。
入口の僕にやっと気づいて、ヘラッと笑う。
頭のおかしい集団から離れたいと思うあまり、緊張し過ぎて筋肉が弛緩してるのだ。
関じいの前で、僕がそうであったように。
――――激しく疲れた。
母たち二人はただ落ち着いた顔で、ときどきお茶を入れ替えたり蝋燭を一時間毎に交替して回ったり、積まれた本の埃をハタキで叩いたりしている。
いい加減飽きてきたのだろうと思う。
一見男たちのお遊びに付き合っているように見えるが。
出版社に残してきた仕事を気にしている母さんと、夕べから煮込んで今は敦子おばあちゃんに任せているのと言っていたカレーを仕上げたい奈津子叔母さん。
どちらも中禅寺家の蚊帳の外に心があった。
正直羨ましい。ほかにすることがある人間は大丈夫なのだ。
言葉の海に溺れたり、誰かに自己表現してわかって貰おうと考えても、姑息な手段を使わない。
――――女は女である限り強い。
夏美もよく京じいの一番近くに寄り添いながら、自分のキャラを捨てずにいられるものだと僕は思った。
関じいをその場に座らせ、襖を閉める。すでに関じいは部屋の空気に圧倒されて、一言も口が利けなくなっていた。
このことがきっかけで早死にしたらどうしよう、じいちゃん頑張ってくれ、と願う。
そのときだった。
唐突に京極堂と呼ばれる男の長弁舌が始まったのは。
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