【京極堂】


『中禅寺家の一族(関口巽)』



 本を片手にうろうろと、教室内で少年が行ったりきたりしている。



 アキヒコは声を高めた。


「セキグチ君、酷いじゃないか!僕は君のことをずっと待っていたのに…………」


 僕は意地悪な気持ちになって、待たせてごめん、部活が遅くなったんだと答える。


「君みたいな男がサッカーなんか始めるからだよ!女にモテようって魂胆が丸見えだぞ」


 口をすぼめる姿が異様にかわいい。僕は股間のうずくのを抑えながら、ブツブツ呟くそのあごを捕らえた。

 アキヒコの顔がカアッと赤くなる。


「き、君。気づいてないかもしれないが」

「なんだい」

「すごくモテるんだ……僕は心配だ……足は長いし背は高くてスラッとしてるし、セキグチタツミといえばみんなの憧れなんだぜ」

「君だって、エノキダケ先輩やキバカシュウ先輩に迫られてるのを見たよ」


 アキヒコは首をぶんぶん振った。いじらしく学生服の襟元を握りしめる。プイッとそっぽを向いた。


「僕が好きなのは」

 好きなのは?

「君だけなんだよ――――セキグチ君」


 僕はその細い腰を捕らえ、「アッ、待って、心の準備が」と言うそのピンク色の唇にキスをした。

 アキヒコが嫌だ嫌だと暴れ、次第に体の力を抜いていくのを感じる。





 僕の可愛い子猫ちゃん、とその耳に唇を落とし、アキヒコの盛り上がるソレに服の上から手を這わ




□□□


 私はそこまで一気に打って、すっかり悦に浸った。

 伸びた鼻が縮まらない。年をとったので股間に影響はないが、こういうひそかな愉しみが寿命を延ばすのだ。

 少し悩んで、カワイコちゃんはひどいかな……小鹿ちゃんでいいかと打ち直す。

 平均寿命を着々と更新している。京極堂に関わった男たちは何故か皆長生きである。

 誰にも黙って書いていた関口×京極堂もとい巽×秋彦。サッカー少年パラレルモノが人気だ。

 京極堂の娘である奈津子さんに打ってる所を偶然見られたときは、ハラハラしたものだが。



 こればかりは孫の秋雄にすら内緒にしてきた。



 目指す京極堂にとろとろと着く。杖をついても老人の足腰には辛い。しかし、この坂を登っている男は皆元気だ。

 京極堂が若いうちから干からびたのは、男たちに性気……生気を吸い取られたからかもしれない。

 家を守ってきた女性より、家から離れて古本屋を訪ねる人間の方が健康体とは皮肉である。



 猫の雪絵が僕を迎えた。



 雪絵さんのことは嫌いではない。綺麗な猫だ。名前もたいした問題ではない。

 初代の石榴を思い出させることだけが、私の悩みだった。奴はよく私のことを猫じゃらしの代わりか爪研ぎとして使い、いい思い出がないのである。

 私の孫も雪絵さんを苦手としている。性格の鬱々とした者には、猫は気まぐれすぎて扱いづらいのだ。

 ただそれだけである。





 私と京極堂と呼ばれる男の間に、周囲が言うような関係はないのだから。





□□□


 そんな余裕があの時代の何処にあったというのだろう。


 石を投げられる覚悟が僕にあったと、誰が思うのだ?

 戦争の後は事件が始終起こり、書けもしない仕事の締め切りに追われ、その後漸く子宝に恵まれた。


 龍彦君の名前は榎木津が。

 奈津子さんの名前は私が。

 敦夫君は誰かが名付け親となる前に鳥口君がつけたのだが。


 妻の雪絵は夕紀子を産んですぐ逝った。


 名前を被らせたのは私の執着の仕業だ。妻が生きていれば違う名前をつけたに違いない。

 幸子がいいか、雪子がいいかと京極堂に言って。



 漢字は彼に選んで貰ったのである。



 名前の由来の長たらしい説明を聞かされたが、一つも覚えていない。

 彼の書いてくれた書だけを持って、夕紀子を育てるためどんな仕事も引き受けた。

 雪絵の忘れ形見だからというだけではないのである。

 ある夏の日に受け取った赤ん坊のことがあってから、子供を持とうと思ったことはなかった。





 その男の手に雪絵が遺してくれたのだから、全力で守ろうと思った。





□□□


 奈津子さんが言うので、頼まれたアドレスにメールを送信せねばならない。

 今日一日でいいから、創作秘話として日記を書き、ここに送ってねときたのだ。

 瀬戸内某は波瀾万丈の創作活動の末、出家した後も携帯小説を書いた。

 私も自分の半生を語りつつ、世の中の創作者たちの希望の星となり。これからは老人も頑張る時代なんですと声を大にして言いたい。

 先導者として恥じない書き方がわからず、普段書いてるものから始めてみた。



 ここにある名前は、創作も含めすべて架空の名前であることを断っておきたい。



 思えば夕紀子に唆され、私が慣れぬ携帯電話を扱いながらポチポチ打ったものは、それなりの評価を得たのである。

 最初はかなりショッキングであった。

 原稿用紙の前でうんうん唸りながら書いたものより、出版化した後の印税が高かったからだ。

 子供たちや孫や揚句の果てには榎木津まで、私の書いたものは携帯小説の方が面白いと言う。

 ダラダラ長く書いている方は、意味不明だと。時間はあちらのほうがかかっているのに!

 昔、京極堂が落ち込む僕を見て一言、はんっと笑ったのが忘れられない。





「文字数で原稿料を稼いでいたから、無駄が多いのだよ。関口君」




□□□


 店番をしている榎木津の横に一度座った。


 寝ている。グッスリである。およそ与えられたのであろう役割を果たしていない。

 不信に思いつつ、庭から座敷に回りこむ。サッシに替えられたのは随分昔だが、中のカーテンが全て閉まっていて、拳で叩いても誰も出ない。



 話声は聞こえるのだが。



 無用心にも家の扉は開いていたので、中に入る。廊下を通りすぎた秋雄に手を挙げて応えた。

 飛び出すような若者特有の仕草は京極堂や私にはなかったものだ。

 しかし、顔色は酷く悪い。


「じいちゃん、いま何打ってたの?歩きながらは危ないよ、いい年なんだから転んで腰でも打ったら――――見せて貰える?」


 ちょっとした短編だ、と慌てて送信した。

 秋雄はいい子なので、創作中の携帯を黙って覗いたりしたことはないが、打ってる最中のはよく覗き込む。


「おじいちゃんは座敷かな?」

「自分もおじいちゃんだろ」


 笑う顔が夕紀子に似ていた。「ああ、でも今日はやめた方がいいよ。厄介なことになってるんだ」

 何がと聞くと、夏美の始めたことでちょっとね。全員順番にお説教を食らってるのさ、と。


「トイレに行くと言って、出てきたんだ。関じいが来たのかもしれないって思って。みんな理由をつけてあの部屋から出ようとしてるよ」


 秋雄は唸り、自分の両腕を掴んだ。


「そりゃ、京じいの――――じいさんの得意技は効かないさ、父さんたちには。生まれたときから言葉遊びの術には掛からないように躾られてきたから。ただ」





 ――――今日は本気だ。




 僕が止めとけばよかった、まさかこんな風になるなんて、携帯さえ忘れさえしなけりゃと下を向く。

 私の鬱の病が多少この子には遺伝したのだ。腕に手をかけると、はははと渇いた声を出して、

 とんでもないことを言った。










 どうしよう、憑き物落としが始まってるんだ、と。











prev | next


main top
×