【京極堂】
『中禅寺家の一族(敦夫)』
事が起きたのはある夜である。
夏美の様子がそわそわとして落ち着きがないので、妻の奈津子に聞いてみたのだ。
「ありゃなんかあったのかい」
携帯無くしたって騒いでるのよ、秋雄君がどうとか言ってたわ、と。
妻は得意の晩飯を手際よく作りながら、僕に答えてくれた。
夏美が
「私やっぱり取り返してくる!」と外に行き、つい、
「ご一緒します!」
とついて行きかける僕を押しのける。すっかり辺りは暗いのだが。
後ろ姿を見送って、寂しく言った。
「龍彦はこんな気持ちだったのかなあ」
「何を言ってるの。兄貴はもっと怒って、通しちゃくれなかったわ」
お夕飯もう少しですから、先に食べましょうと奈津子は笑った。
□□□
さて。
母も義母も手料理の上手なことといったらなく、
その娘であり姪である奈津子の料理は、殊の外旨いのだ。
加えて美人の血を引いてるのだから、当然幾つになっても美しい。
僕は美しい物・人には弱いのだから、
例え自分が父に似て見た目がちょっと残念であろうとなかろうと、
美しい妻とよくできた娘にさえ囲まれていれば
毎日さぞかし面白おかしく楽しく幸せに。
ぜぇ、はぁ。
僕はぽちぽちするのに疲れて、ここまで打ったぞ、と龍彦に携帯を渡した。
空白は何を表しているかって?
龍彦の猛烈に怖い仁王のような顔で睨まれたため、僕はまたぽちぽちする羽目になっているのだ。
全くなぜこんなものを押し付けられているのか、意味不明である。
断固抗議!断固抗議!
そう思ってジィッと見つめても無駄なのだ。
龍彦は彼の父に似た所はないが、もうその目線だけで――――
この世の悪党を鼻から火を噴く勢いで退散させる、凶悪な面構えなのだから。
□□□
龍彦は芥川のお化けそっくりの父親を見て育ったので、ありとあらゆる武道を若いころに習得したのだ。
その分凄みは増して、龍彦がなぜ跡を継がなかったのか…………
神社の方ではなしに。
黒い方。激しく黒い方。
誰よりも向いていたと思う黒い方を。
継がない理由がなんだったのか、今だに僕は知らない。
武道をやってた理由はいわく、
榎木津老人の玩具にならぬように。
その喧嘩に巻き込まれた場合に加勢できるように。
肺病病みのような父・秋彦の肋骨を、いつか折ることができるように。
元・警察官の木場老人の手ほどきを受けたのは本当らしいのである。
□□□
龍彦は夜に突然訪れた。
先程書かされたぽちぽちの時間軸に添うと、食卓にいい匂いが漂い始めてからである。
ピンポン、はーい!
あ。僕が出るよ。
どちらさま?ガチャ。
――――バン!
目の前で閉めた扉の向こうからは何も起こらず、妻が台所から顔だけ出した。
「あなた?どなただったの?夏美?」
「え。べ、別に君が気にするような人では」
お届け物ですが!と凛とした声が扉の向こうで響く。
声だけは外見に見合わず、父親に似てしまったのだ。
野太い声を出そうと練習してるのを学生時代に発見してしまい、大変怖い目にあったことがある。
そろっと開けるとヤクザもどきの死神がいた。
□□□
奈津子は躊躇せず自分の兄を家に入れて、夏美のご飯食べて行く?友達の所へ行ったのよ、と危ない橋を渡った。
友達。
秋雄は龍彦の息子だが、離婚して母方に引き取られたので、龍彦には預かり知らぬことである。
「兄さん、こんな夜遅くに珍しいわね」
龍彦は僕をじろりと睨んで、コイツに渡すものがあるのだと言った。
鍋が噴いてるぞ、と兄貴が言うと、あらやだ大変と奈津子は行ってしまい。
僕もあらやだ大変!と逃げようとして、龍彦に腕を掴まれた。
「お義兄さん、ちょいと僕にはそんな趣味」
「貴様に兄貴呼ばわりされる筋合いはない!」
「たっちゃん、やめてくださいよう。何しに来たんです?」
龍彦は上着の中に手を入れて、これだ、と手を出した。
そこには、見覚えのある可愛いデコ電。
夏美の携帯だった。
□□□
『なぜ人の娘の携帯を持ってるんだ!』
と掴みかかれないのが僕である。
龍彦は我が娘と仲がよいのだ。
鬼瓦みたいな兄と、生きた枯れ木や化石のような父親を持つ奈津子を、なぜ嫁に貰えたのか今なおわからない。
母・敦子が強かった。それに尽きると思うんだがなあ。
うん、ありがとう娘のためにわざわざと手を出したが、龍彦は渡そうとしない。
「いいか、よく聞け。これから言うことを書いてほしい」
出来たわよ、いらっしゃいなと妻の声が重なる。
え、今なんて?僕に頼みごとした?したよね?しましたよね、たっちゃん!
龍彦は至って真面目に答えたのだ。
「重要だ。飯を食った後でいいから、今日起きたことをブログに書け」
「…………どこにだって?おい。君その年でブログ始めたの?まさか雪絵さんの美しい肢体ブログとかじゃ――――」
「これは非常に大切なことなんだ。親父に関口老との同居を考え直させるために!」
口があんぐりと開いた。
僕がここまで龍彦に言われた通り。ブログの続きを慣れない手で打ったのは、その次の言葉が書きたかったからだ。
断じてそのためだけ。
老人の同居事件をなぜ止めさせられるのか、わからないから僕に聞かないでくれたまえっ。
ただどうしても書かなきゃならなかったんだよ。
龍彦はね、たっちゃんはね、五十幾つになって初めて僕に
頼むって頭を下げたんだからな!
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