【京極堂】


『体操とあなた』





 軍国的側面を助長すると誰かが云って、終戦後暫くの間は禁止されていたが。



 何故いまさらラジオ体操なんだ。

 朝早くから、榎木津が家に押しかけてきた。ぐっすり眠っていたのに、布団を剥がれて酷く寒い。


「榎さん、朝っぱらから何の騒ぎなんだ――――」

「今日も今日とてお誘いだ!直々に来てやったのだ。有り難く思え」


 思えるか。それでなくとも何時も起きるのは昼過ぎなのに、肌寒いこの季節に体操。


「十代や二十代じゃないのだぜ。僕らは」


 榎木津は聴く耳を持たない。中野の空き地でラジオ体操をすると云う。


「どうしてあっちまで行くんだい。空き地はそこかしこにあるでしょう」

「僕が主催したからだ。近所の年寄りと、じゃりんこが来る。たのしいよ!」


 いつの間に。しかも体操をしに行くというのに、その恰好は何だ?

 榎木津は燕尾服を着ていた。シルクハットこそ被っていないが、ステッキを振り回し、英吉利紳士か大道芸人に見える。

 理由を聴いたら、「僕と似たような名前のヤツが、こんなのを着て踊っていたろう」と云った。

 それを云うなら江木理一だ。

 ブリーフ一枚でラジオ体操をしていたが、『照宮成子内親王もラジオ体操にご執心なり』と聴いて、燕尾に蝶ネクタイを締めた。

 探偵によると、ステッキは飾りだと云う。ダンスと間違えてるんじゃないだろうな。

 襖の影で妻の雪絵が笑いを堪えている。なんで家に入れたりするんだと、恨めしく睨む。


「京極堂を誘ったらいいじゃないですか」

「うん。最初はそのつもりだった。背骨がばきぼきいうのを聴くのも悪くない」

「――――」


 それならしょっちゅう聴いている。艶めいた雰囲気を台なしにする究極の効果音だ。

 しかし私も、人のことを云えた義理ではない。運動不足で足腰が痛む。

 躯を軟らかくするのはいいかもしれないな。快感が増すとも云うし。


「ほら、判ったら早く畳から起き上がる。むさ苦しい髭を剃るっ」

「…………頭の上は視ないでくださいよ。いやらしい」

「じゃあ僕ひとりで行こう。本屋を誘って替わりに遊ぼう。腰を振るのを後ろから眺めよう。上げた腕の隙間から見える脇毛を拝もう」


 何がどのように『視えて』いるのだ?気になる。体操でなく、大層気になる。

 ううん。眠いが仕方ない。このままだと蹴りが飛んでくる。立ち上がってハタと気づいた。


「榎さん、まだ電車の時間は」

「二輪!」


 後ろに乗れということらしい。前より後ろの人間が寒い。事故って死ぬ確率も後ろに乗ったほうが高い。

 せめてサイドカーで来てほしかった。いろいろうんざりして、溜息を吐く。

 誰かのお守りをするのも運動不足も、骨が折れる危険性は同じだった。








 数分と掛からなかった擁に思う。普通では有り得ない速さだ。

 ステッキを榎木津の腹に回し、しがみついて半分寝ていたから、よく覚えてない。

 兎に角、眠気が感覚を忘れさせた。暖かい大きな背中に抱き着いたままでいる。腰の力を使って二輪自動車を挟み、そういえば。

 そういえば、誰かにの背中に負ぶさったり。抱いて助けて貰うのは殆ど探偵相手だな、と思う。

 モーターの煩い音が消え、片足で支える。背中をぽんと叩かれた。


「ケケケ。何時まで抱き着いているんです?」

「先生ぇ。偉い!締め切り昨日だったんで、徹夜でしょ?よく起きてくださいましたよう」


 益田と鳥口が交互に云った。締め切り?知らなかった。

 忘れてたよ君。編集者だろうしっかりし賜え。私が約束を守ったことなど一度も。


「おおい!着いたぞ、猿」


 ――――嗚呼、また京極堂から脚が遠退く。

 怒られるだろう。愛想はとっくに尽かされている。今日は朝から違う男の背中にくっついて、ウトウトしていたなどと痴れたら。

 ああ、だが気持ちがいい。


「関君。ほら、そこ見なさい」


 我慢の仕合いだ。私だって我慢しているのだ。

 京極堂。君の親友に手は出さないし、君だって彼を押し倒したりはしないだろう。

 彼は私の友人でもあるのだ。


「関口。ラジオ体操だろ」


 たまには懐いたって、いいに違いないさ。今朝は寒くて眠いから。ラジオ体操?掛かって来い。

 あとせめて五分寝かせてくれた後にならね…………、







「――――関口君」







 その場の誰より低い声が、唐突に響いた。ステッキと探偵の腰を握る手に力が篭る。


 怖くて目が開かない。


「師匠!矢ッ張り来たんですか?」

「君達が五月蝿いせいで、千鶴子に追い出された。体操なんて学生時代しか――――それより」


 私は榎木津から離れなかった。寝たふりを続ける。

 何故か額から汗が噴き出た。


「榎さん、落とせ。寝汚いから、いつまでもそうしてるぜ」

「猿も榎木から落とせですか」

「ヤダ。猿は抱き着くのが好きなのだ。僕もあったかいからほっとくの」

「わあ。あっちこっちお客さん一杯ですな!先に用意してるんで、ちゃんと起こして下さいよ」


 頭の上で交わされる会話。鳥口と益田の離れる気配。


(頼む。一人でいいから残ってくれ)


 願いも虚しく榎木津の、がははと笑う声だけ届き。瞑ったままの目に影が落ち、耳元に囁かれた。


「親猿から腕を退けるんだ、関口君。朝は榎さん、夜は僕の体操に付き合って貰おう」


 榎木津がえいッ、の一声で私を振り落とした。

 躯をばきぼきいわせながら、朝も夜も京極堂と?













 締め切りが延びるなら考えてもいいな。





(えっ。先生の締め切り?参ったなあ、師匠が云うなら延ばしましょう。ところで)

(中禅寺さん。体操見に来ただけなんで?おじさんもノリノリですが、ありゃ踊ってますな、完璧に)

(君達も若いのだから、腰を大事に運動し賜え)







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