【事件簿】


『最期のワトスン』




 すぐ家に戻ることもできた。

 家族から関わりを持ちたくないとのけ者にされ、自分の能力の使い道も知らずマイクロフトは独りだった。教授の言うとおりだ。だがこれからも一人にさせておく気はない。

 私がまず帰るべき場所は、ほかにあるのだ。

 看護士が目を丸くした。昨日の今日で、どうしたのかと言う。私は苦笑して、言い澱んだ。

「全部食べていらっしゃいましたよ。皮までね」

 呆気に取られて片手を振り回すと、特別おもしろくもなさそうに、看護士は面会表に記入した。

「それより。あれの続きはまだないんですか」

「リンゴなら今日は忘れました」

 看護士は咳ばらいをして、とにかく広場を覗いてご覧なさいと、珍しく口の端で笑って見せた。

 私は不信に思って、髭を引っ張った。やけに愛想がいい。

 廊下を歩く足は重かった。戦場から帰った初日以上の重さだ。あの頃は、ただいろんなことを遠ざけたかったのだ。過去も、人間も、楽しみも、悲しみも。

 すべてをだ。

 受け止められない幼さを否定するのはやめた。私は過ちを犯したが、戻ってきた。教授がそうしたように。愛するほどに憎みながら、マイクロフトが彼を許したように。少しずつ、たった一歩踏み出すだけで――。

 この勇気が報われなくても、誰かの向ける凶器や拒絶を恐れたりはしない。

 長い廊下の先が騒がしく、私の足はどんどん遅くなった。なぜこんなに遠いのだろう。何度も通ったはずの場所が、別世界のように大きく見える。左側から差し込む陽気に頬が熱くなり、急に嫌な悪寒が背筋を走り抜けた。扉を開け放ち看護士が慌てて廊下を走り抜ける。

 反動で閉まる前に見たのは、椅子に座る誰かを囲んだたくさんの人間だった。


 やめてくれ。

 なぜ今なんだ。

 頼むからよしてくれ。


 祈るように足を運ぶ。戦場で痛めた傷のことも忘れて走った。扉の向こう側でむせび泣く声が聞こえる。これはきっと、夢に違いない。椅子に座って目をつぶっていたのは、兄ではない。

 よく似た別の誰かだ。

 私は扉を開ける僅かな勇気を無くしてしまった。どいてくれ、と監視員が後ろから叫ぶ。私は突き飛ばされるようにして、道を譲った。彼が中に飛び込むと、患者たちは横にのいて、椅子の人物がよく見えた。

 そっと広間に足を踏み入れる。私が来たことに誰も気づいていないようだった。

「さあ! ワトスンさん、望みのものをお持ちしましたよ」

 監視員が兄の口にパイプ煙草をくわえさせる。兄はじっとして動かなかった。私は頬を流れ落ちるものに気を払わなかった。音をあげてマッチが擦られる。中身も詰めてあるのか、煙も少しは上がった。

 ――しかしそれきりだ。息をしていないのだから。

 私は丁寧な対応に礼を言おうと前に出た。誰かの鼻を啜る音だけが響く。

 アーサー、と声にならぬ声を出す前に、パイプの煙が再度上がった。喉が動く。胸が上下する。手がパイプを取って、ぷはあと吐いた。薄く目が開き、にやりと笑う。


「さて、ゲームの始まりだ」


 ほとんど反応の消えた患者たちが、一斉に喚いた。畜生自分だけ。おい早くしろ。くそくらえ。兄はご機嫌なときのように、鼻歌をくちずさみながらパイプを吸った。膝の上に乗せた本を手にする。

 昨日渡した、クリスマスの増刊号だった。

 私は兄と患者と監視員やら看護士やらを代わる代わる見つめた。兄は気づかず、パイプを歯で噛んで真剣な眼差しで文字を追った。「どこからだった? そうそう、『さて、この丸薬をいまから二ツに割ります。真っ二つにね!』」

「馬鹿。そこはもう読んだ。だいたいおまえは読み間違えと脚色が多すぎる」

 男の粗雑な物言いには気を払わず、兄は平然と声に出して笑った。

「上等だ。次はコカインと引き換えにするか」

 お酒以外ならなんでもお持ちします、と看護士が言った。監視員の咳払いに合わせ、男が悔しそうに呟く。

「クリスマスが来たらお前なんて用無しだぞ。俺はここの連中と違って、字が読める。完璧にな」

「だったら待てばいいさ。しかし、俺の愛するたった一人の弟は、おまえさん以上に頭がいいから」

 兄が顔を上げて、私を見た。驚いた表情はすぐに失せ、パイプを取って笑う。

「次の話もすぐ書き上げるぜ」

 私は濡らした頬を慌てて拭きながら、兄が朗読を続ける前にこう言うのを聞いた。


 諸君。緋色の研究の作者アーサー・コナン・ドイル、私の弟を紹介しましょう――。






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