【事件簿】


『厚情のワトスン』




 教授からの電報が届いたのは、翌日の明け方だった。都合がよければすぐ来い。駄目でも来いという内容だった。

 マイクロフトは食事も一緒に取らず、部屋にこもっていた。私が躊躇いがちにノックをしても、返事もしない。私は扉越しにそっと声をかけた。昨晩はそのまま手のかかる子供のように彼を寝かしつけ話もしていない。家庭の事情に深入りして、彼との友情を崩すのが一番恐ろしかった。

 家族とさえ関わりを避けてきた私には、真っ向からぶつかる勇気はないのだ。

 扉が開く。中から子犬が飛び出して、私を馬鹿にするように吠え、階下に行った。しっかり親の血を引き継いでいる。マイクロフトは目の周りにクマをつくり、疲れきった様子で手に持った懐中時計を見せてきた。

「父のものだ。金貨は顔も知らぬ母の。いずれ君には話そうと思っていた」彼に返してきてほしい、と言った。

 私は承諾するか否か迷ったが、結局受け取った。マイクロフトはありがとう、ワトスンと笑った。

「本当は最初から、君が何をしに会いに来たか知っていた。裏をかいて一泡吹かせるために同居を勧めたのだ――昨夜はそこを問い詰められて頭にきた」

「教授のほうが上手だったからかい」

「僕が君を必要としていることを、彼には知られたくなかったからだ」

 私はちょっと黙った。愛の告白でも受けたように動揺している。マイクロフトは不自然な言葉を吐いた自覚もなく、もう少し寝るとため息をついて部屋に戻った。

 必要としている。

 私は彼がよくそうするように懐中時計の金貨を指で弄り、支度を済ませた。教授にこれを見せれば、聞けるかもしれない。金貨に纏わる恋の話や、なぜ子供を手放そうとしたのか。閉ざされたブリキの箱にある過去を知るための鍵なのだ。

 それは充分物語になるだろう。

 向こう側を見たい欲求はあった。教授に会いにいくことで、マイクロフトの許可を得たと思っていい。しかし――私は時計を机の上に置いた。必要ない。

 彼自身が話したくなったとき、知ればいいことだ。

 私は馬車を呼び、大学ではなく指定された地区に行くよう指示を出した。御者が私の恰好を見て、眉を潜める。

「ワトスン!」

 窓際からマイクロフトが、出てこいと指を動かした。真下に降りると、重しと一緒に布が落ちてくる。煤けて古びたコートだった。

 彼は欠伸をしながら手を挙げて消えた。

 イーストエンド地区に入ると、目的の場所より手前で降りた。馬車も上質の外套と同じくらい危ないからだ。浮浪児たちの指をかい潜り、建物に入る。外観ほど酷くはなかった。奥へ足を進めるほどに、臭いがきつくなる。

 長い廊下の突き当たりで警官が一人立っていた。誰だと聞かれて、モリアーティ教授の名前を出す前に後ろの扉が開く。

「彼は私が呼んだ。報告は助手がする――別室へ行こう、ワトスン君」

 教授は検死解剖の終わった直後らしく、汚れた作業着を脱いで私を迎えた。似合っている、とマイクロフトの見立てを褒める。離れの部屋で肘から先を念入りに洗うモリアーティ教授は、気難しい横顔が言われてみれば彼の息子そのものだった。

 事情が何かはどうでもいい。聞きたいのはひとつだ。「マイクロフトが薬漬けだと偽った理由はなんですか。モラン大佐のほうは、酒だと言っていましたが」

 教授は首を横に振った。落ちない赤い血を繊細な指で執拗に擦る。

「酒は匂いで気づいてしまうだろう。君をマイクロフトの傍に送り出すと決めたときそう決めたのだ。不健康な生活と持病の躁鬱のせいで見た目だけは通る」

「なぜ、私を。どうして嘘までついて……」

 水の流れる音だけが響く。カーテンの引かれた室内の薄暗さが、空中を飛ぶ蝿より重苦しく私を包んだ。答えは簡潔だった。身勝手であっても、私には理解できた。

 教授は振り返り、真っ直ぐに灰色の眼で私を見た。


「息子は独りだった。ほかに理由などいるかね?」






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