【事件簿】


『海峡のワトスン』




 マイクロフトはほとんどが聞き役で、たまに一言返す以外に自分ではあまり喋らなかった。話の些細な出来事を聞き逃さず、相槌を打っていたかと思えば眠ったように動かなくなる。

 薬の副作用に違いない。

 何か題材にしようと考えていた私の目論みは消え失せたが、用を足さなくなった手帳を閉じても、この人物を知りたい欲求があった。気づけばここへ何故来たか、彼の叔父との関係がどんなものだったか思い出話をしている。

 教授については持ち出さなかった。紹介を受けたのだから繋がりは当然あるのだろうが。単なる教え子というだけの共通点しかない。一目置かれているというのが気に入らず、含むところも多少はあった。

 マイクロフトは太い指の腹を合わせて、時々含み笑いをし、叔父はプライドが異常に高く、加えて自意識過剰なために自分という人間をわかって貰いたがるのだと言った。

 皮肉混じりの口調が似てはいたが、叔父の倍ほどもある彼の身体は健康とは言い難く、医者として散歩を奨めれば、屁理屈で返されて断念した。久しぶりにあった旧友とするように経験したことを語り、頷いて受け止めてくれる都合のよいことだけを望んで口を動かした。

 どれだけ気持ちが弾んでも――兄についてだけは漏らさなかったのだが。

 ふと外を見ると日が落ちかけていて、夕飯を部屋でご馳走になり。懐中時計の鎖から垂れる、その金貨は何ですかと尋ねた。

 マイクロフトは出っ張る腹で押し上げた時計を外し、私の手に渡すと呟いた。「これ一つからわかることは山のようにある」

「ただの時計でしょう――」

「では、君の時計を借りよう」

 私は自分の時計を取り出し、よく考えもせずその大きな手の平に落とした。マイクロフトは小さな鼻眼鏡を胸元から取り出してかけ、何か教授から預かっていないかと聞いてきた。

 私は謎の小道具の幾つかを机に出し、マイクロフトは虫眼鏡を取ると私に差し出す。目をすがめて時計と金貨を見たが、何もわかることはなかった。

 マイクロフトの方も同じようで、眼鏡を取り去りため息を吐く。最近手入れに出したのかと聞くので、そうだと答えた。

「たいしたことじゃない。以前の持ち主が大層な呑んだくれで、少額の借金があり精神病を患っていることくらいか。細かな傷や質屋の印や諸々から結論が出たのだが、いちいち説明していくと、君より短いと推測される私の寿命までの時間がもったいないので省く」マイクロフトは時計をぱちんと閉めて、私の反応を待つ前に言った。「君の親類であることも、たった今気づいた頭文字から把握した。そこだけ知らぬふりをするほど厚顔無知ではないが、無躾な真似をしたと先に謝らせてほしい」

 怒って部屋を飛び出すと思ったのだろう。あるいは机に置かれた花瓶で膨れ上がった顔を殴るとか。

 私は笑った。

 分析力に優れているらしい。教授は鋭敏な人間を好んで手元に集めた。内輪のこととはいえ隠すほどの話でもない。病院で治療を受けている兄のことだと言った。気楽な療養生活にかけては自分も負けてはいないと彼も苦笑した。

「教授が君を送り込んできた理由がわかった」

 その先に続くのは拒絶だろうと待った。しかしマイクロフトはそれに関しては触れることなく、小道具のいくつかを手に取っては指で弄んだ。「奴の目的はわかっている。奴や叔父の――」

 言いかけて口をつぐんだ。私は聞き返したが、彼は首を横へ振った。真意はわからない。

 薬への執着心は強いようだ。私の視線をかい潜るように、マイクロフトは顔を片手で覆い隠す。面を上げたとき、神経質な眉間が和らいで私を見た。

「何ヶ月も一部のクラブに出入りする程度にしか外を歩いていない。君さえよければだが――家に住んではどうだろうか」

「それは、どういう」

「この家にだよ」 マイクロフトは自分の提案を確かめるように頷いた。「空き部屋がたくさんあるわけでもないが、食事も家政婦が用意する」

 経済的に苦しいことも相手に筒ぬけであるのは明白だった。顔が熱くなるのを抑えようとして、自分の肌が黒くなっていることを思い出す。

 私にとっては都合のいい話だ。しかし彼にとっては?家賃の支払いが誰のポケットから出ているのか知らないが、独断では決めかねた。

 理由を聞いても答えは曖昧だった。マイクロフトは重い体を捩って、教授の出した小物の中からトルコスリッパを取った。どう考えても彼の足のサイズには合いそうにない。

 手近の葉巻入れから中身を取り出し、スリッパに二、三本入れてから鼻を鳴らした。

「君が気に入ったのだ。難しく考えるな」

 やせ細った自分の兄と、肥え太ったマイクロフトが同じに見えた。柱時計が階下で鳴り終わると、自分の下宿からここに至るまでの距離を考え。


 私は奇行に走る同居人との生活を承諾した。






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