【事件簿】


『廃屋のワトスン』




 失われた時間の大きさがわかるのは、時が過ぎ去った後だ。怠惰になって妙な画策をはねつけることもできた。そうしなかったのは、戦場から帰ってしばらく経っていたせいもあるだろう。

 翌朝早くに、手帳を携え訪れた。私に精神学の心得はない。薬を絶たせる治療法も知らない。ただ話し相手になり、薬に手を出した回数を記録しろ。そう言われたのだ。持っていけと言われた幾つかには、普段使わぬ小道具のいろいろがある。大佐の甥というのは何をしてる人間なのだろう。

 人目を避けた田舎の農場で暮らしていると考えたのに、書かれた地図の先は大都会だった。馬車に乗るほど所持金はない。

 同じ霧でも、ロンドンは違う。空気の重さに体が慣れず、痛む腕を撫で下ろしながら目的地へたどり着いた。かなり早い時間に来てしまったことを悔やむ。相手が不規則な生活をしていることは目に見えているのだ。

 小さな家で家政婦が出迎えた。まだ若いが眉間の皺のせいで老けていた。彼女が口を開くと、この世のものとは思えぬ音が唐突に鳴り響く。

 私の後ろで犬が吠えかかった。

 慌てて扉を閉め、二階からの騒音について聞く。私が知人の紹介で来たと知るや、家政婦の口から例の甥について、暴言が洩れた。若い女性のわめき立てる声と騒音。道端の犬を相手にしたほうが耳の健康にはいい。

 しばらくすると帽子やコートを脱ぐひまを与えられた。楽器の旋律が途切れると、家政婦は急に小声に変えたのだ。「あの方は針一本落とす音にさえ敏感なんです。先ほどの絹を裂くような音楽だって、貴方を歓迎してるつもりなんでしょう」

 私が態度を決めかねていると、二階から扉の開く音がした。弦に跳ね返って微かにヴァイオリンが鳴る。

 響きは悪くない。弾き手が悪いだけだ。

「お客さまなら早く通したまえ」見えないところで男が言った。「僕は時間のある身の上だが、その人は違うだろう」

 叫んで返そうとするメイドを抑え、私は階段を上がった。続く廊下の向こうに、人影が部屋に入るのを見た。特に出迎える気はないらしい。

 開け放たれた扉の向こう。そこに男が一人立っていた。こちらに半ば背を向けて、窓辺の縁に座っている。モラン大佐の甥子さんですかと聞いた。逆光でほとんど姿が見えない。

 そうだと言われる前から確信はあった。教えられた特徴と酷似していたのだ。

「ようこそドクター・ワトスン。君はアフガニスタンから帰ったね」

 なぜかギクリとした。

 そうだ、叔父と同じ駐屯地に居たのだ。手紙か電報で知っているのだと思い当たる。あるいはモリアーティ教授が間に入っているのかもしれない。

 私が答えるより先に、モランの甥は手招きをした。窓際の椅子からゆっくり立ち上がった。握手をする。

「マイクロフトです。うん、あなたは私より幾つか下なのだろう。若いとはいいものだ」

 太い体を揺すって、マイクロフト・モランは言った。背が高い。

 ――兄と同じ年だ。

 マイクロフトは鋭い眼光で私を見た。握った手を離さない。

「たいていの人間のことは、握手をする前に解るのだが。職業とか肩書き、家族構成やそのほかのどうでもよいことがね」手を離すと、座ってくれたまえと椅子を示した。叔父と区別をつけるために、嫌でなければ名前で呼んでくれと言う。

 メイドの叫ぶ声が遠ざかった。あの娘も早く辞めるほうがいいのだとマイクロフトは続けた。

 座りかける私を制した指先は、体の大きさに反して酷く細長かった。

「些か不快な思いをさせるかもしれない。私に付き合えなくなったら、その椅子を蹴飛ばして、無言で立ち去って構わない」

 僕は怒らない、と穏やかに言う。私はおいとまします、と口にしかけたのだが、神経質な指が弄ぶ懐中時計と、その先の金貨一枚が目に止まった。


 椅子に座って、私の手には小さな手帳ひとつであった。






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