【事件簿】


『黄昏のワトスン』




 陸軍病院で軍医の資格を取ろうと考えていた。母が老衰で亡くなり、兄も弱って療養所に入れた。あらゆることに金がかかる。そして、責任は全て私の手にあった。

 開業医になる意思はない。

 一日中さまざまな患者を相手に、人間の体を診る。治療の可能な患者だけでなく、痛みを和らげる治療すらできぬ患者を初めて診た。学業として学んでいた時期と、全く異なる研修。死体を切り開いて解剖するのとは訳が違う。

 凄絶な場所だった。少なくとも私にとっては。

 しかし、所詮は安全な国内での出来事だ。手足を置く場所に気をつけなければ死ぬ世界ではない。メスを持つ側の医師たちは、ベッドで悶える人間の痛みは知らない。どちらかといえば手術は、計算的に材料を扱う料理人の仕事に近かった。

 旨くない部分を切り取り、剥がし、つける。体の中を掻き回すことを赦された職業。不謹慎なことに鼻歌を発しながら現場に適応している者もいる。

 私には、誰もいない家に帰ることのほうが怖かった。

 助手のスタンフォードが酒場に繰り出そうと言うのを待ったが、どうしても帰らなければならない日もある。薄暗がりで家族の写真を見ていた。週末兄に逢わなくてはならないことが重荷だ。

 兄はこの数年で、体の半分が酒でできていた。体重は半分ほど、最後に自分の手で入浴させたとき、骨に皮が張りついていた。つかの間の休みに顔を見せる。その小さな行動が、私の罪悪感を埋めている。

 どう考えても家には置けない。世間体ではなく、私にはもはや兄の自傷を監視できないからだった。

 翌朝早くに家を開けて、療養所を訪れた。看護師に案内を受け、手持ちの果物と本を奪われる。「それは兄に――」

「どんなもので怪我をするかわからないので」

 看護師は無表情に続けた。「規則です。何も持ち込んではいけません」

 広間にはたくさんの人間がいた。何をするでもなく顔の青白い者たちが離れたそれぞれ位置に座っている。兄は日当たりのよい窓際ではなく、部屋の影で俯いていた。

「ああ、よく来てくれた」

 兄は私に気づいて、手を握ってくる。私は椅子を引き寄せて座った。私の名前を呼ばない。忘れたわけではないのだろうが。

 施設を奨めたのは大学の恩師で、選ぶ余地はなかった。初期に入れた場所では看護師の隠れた暴力が蔓延していたし、次の場所は遠すぎた。三番目では洗濯全てを家族が持ち帰らなければならず、今の所は監視員が不足している。

 奇声をあげる別の患者に、監視員が数人がかりで体を押さえた。私は見ないふりをして、兄の手を握り返す。

「軍医になるんだ」

 兄は以前なら眼を力一杯開けて、笑い声をあげたはずだった。医者になるということに、私以上の期待を寄せていたのだから。今はただ、椅子に座って手を握り、よく来てくれたと再度返すだけである。

「リンゴを持ってきたんだよ」 私は耳元で囁いた。「後で食べるといい。馴染みの看護師にチップをやるから」

「ああ、本当によく来てくれた」

 兄は繰り返し、眼を泳がせた。黒ずんだ顔に赤みがさす。「だが、どこかへ行くのだろう」

 私を握りしめる手が、強くなった。私はどこへも行かないさ、と口ずさんだ。

「お前は嘘つきだ」

 兄は尻の下からナイフをゆっくり取り出し、「リンゴをここに持ってこい」とこちらに凶器を向けた。

 私が特に騒ぎもせず、明るい場所でもないせいか。誰も気づかず、助けを呼ぶこともしなかった。兄は感情を見せぬ眼で、私の反応をうかがっている。

 涙のひとつでも見せてくれるなら。あるいは自分に涙のひとつも出せるものなら。

「まだ、死にたくない」

 私の言葉に、兄は立ち上がった。切っ先をこちらに向ける。仕舞ってくれ、と懇願した。「お願いだ。そんなものがなくても僕は」

 凶器を振り上げた。その格好のまま、細い体がうねる。俺は死にたい、と自分の首に向けた。

「アーサー、よせ」

 愛しているよと兄が言った。素早い動きで殴り倒す。患者の叫び。人が来る前に、気絶した兄からナイフを奪って、ポケットに入れた。なにがあったんだ、と口々に責める声を背中越しに聴く。

 私は急ぎ足で立ち去った。

 嘘をつくのに慣れていたから、手記を書くことも可能だったのだ。言葉を扱う者に、正直者はいない。


 数ヶ月後、配属された連隊を追って、インドへ旅立った。






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