00.プロローグ
走る。走る。走る。
夢と現の区別をつけられぬまま、少女はただひた走る。
限界はとうに超えていた。
心も身体も、今にも壊れて崩れ落ちそうだった。
それでも足は止まらない。
止めることは許されない。
虚ろな目に焼きついているのは、一縷の光だ。
満身創痍の彼女に差し伸べられた救いの手。
早く逃げろと背中を押してくれた、不器用な手。
消えることのないその感触は、半ば意識の飛んだ少女を何度でも奮い立たせる。
だから走る。走り続ける。
転んでも、倒れても。
何度でも立ち上がって走り始める。
「……あきらめるな」
何があっても。
何があっても。
何があっても。
壊れた機械のように、少女は同じ言葉を繰り返した。
掠れた声で、鉛より重い脚を叱咤する。
どこの誰に聞いたのかもわからない。
おぼえていないし、思い出すこともできない。
けれど少女が成すべきことは、何もかもその言葉に集束しているように思われた。
「──」
……ふと、小さな疑念が芽吹いた。
これは本当に現実だろうか。
本当は、脆く儚い泡沫(うたかた)の幻ではないだろうか。
地を駆ける感覚も、草木の匂いも、移り変わる景色もすべて都合の良いまやかしで。
本当は今も、あの真っ暗な地下の密室で閉じ込められたままなんじゃないか。
ただ一人、助けに来てくれた少年がいたことさえ──わずかな希望の光を見たさえ夢幻なのではないかと、たまらなく不安になって。
「……はっ」
浅い呼吸の中で嘲笑が漏れた。
疑念がなんだ。
不安がなんだ。
夢であれ現実であれ、どうせやることは何も変わらないのに。
少女はただ、殺された父の遺言に従うだけだ。
苦しくても顔を上げろ。
辛くても前を見据えろ。
地べたを見ていたって、良いことなんか何もないのだから。
走る。走る。走る。
夢と現の区別をつけられぬまま、少女はただひた走る。
目指すは並盛から遥か、東京都中王区。
東方天乙統女率いる言の葉党である。
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