第十三節 崩れゆく世界で


 それは正しく、世界の終わりと呼ぶに相応しい。

 大きな地響きとともに、校舎は見る間に崩れ始めた。少し前まで天井であった瓦礫は床に落ち、窓硝子も破片と化して散らばっている。外に視線を向ければ、校庭は地割れを起こし、空にも罅が走っていた。

 崩壊を見届けるように、ゆっくりと廊下を歩いていく。小さな瓦礫や破片を踏む度に、足の裏で砂粒へと砕ける音が鳴った。

 雨のような瓦礫はわたしを避けるように落ちている。かすかに残るこの世界の支配権の影響かもしれない。特に頭上へ注意を向けることなく体育館に戻ると、そこには既に誰の姿もなかった。ほんの数分前までいたはずの彼らは、痕跡ひとつ残さずに消えている。きちんと帰すことができたなら何よりだと、安堵に胸をなでおろした。


「ねぇ、エロドさん。ひとつ訊いてもいい?」
「なんだ?」 
「……まさかとは思うけど、貴方、ニャル様じゃないよね?」


 すべての元凶とも言える、人ではない何者かに問いかけた。黒ずくめの姿といい、人を弄ぶ愉快犯的な思想といい、少なからずニャル様──ニャルラトホテプに該当する特徴があると思った。有り得ないことの連続する今回の件で、手ぐすね引いていたのがニャルラトホテプだとしてももう驚かないだろう。そう思っての問いだったが……。


「いいや、違う。元は同じだが、俺は俺だ」
「……?」
「H・P・ラヴクラフトらによって創作された神話──クトゥルフ神話をお前は知っているようだな」
「あんまり詳しくはないけどね」
「今日(こんにち)のクトゥルフ神話とは、多くの人間の描く物語によって構築されたモノだ。そしてその神格たちは、多くの物語に共通する概念を寄せ集めたモノによって形成されている。それが現在、お前たち人間がよく知るクトゥルフ神話の神々というわけだが……形成の過程で削ぎ落とされた要素もまた、集まってひとつの形を得た」
「……要するに、ニャルラトホテプの共通概念が形成される過程で、ふるいにかけられた部分の寄せ集めがエロドさんってことでオーケー?」
「理解が早くて何よりだ」


 自分なりに噛み砕いて確認を取る。肯定が返されるということは、そういう解釈で間違いがないということらしい。わたしの問いに対する答え──『元は同じだが自分は自分』という発言もその成り立ちによるものだろう。とはいえ、ニャルラトホテプになれなくとも、彼は元々ニャルラトホテプであるとして生まれた存在。似たような性質があってもおかしくない、ということか。


「オリジナルに比べれば神格は落ちるし、できることにも制限はあるがな。まあ、俺は俺にできる範囲で、お前たち人間を弄んで遊ぶだけだ」
「うわクズだ」
「お前にだけは言われたくないんだが」


 お互いに盛大なブーメランなんだよなぁ。


「……で? 楽しめたの、エロドさん的には」
「面白かったぞ。特に体育教官室での私刑がな」
「うわやっぱクズだ」
「お互い様だろう。……楽しませてくれた礼だ。最後に一つ、願いを叶えてやってもいい」


 エロドさんが尊大に笑う。無駄に顔はいいんだよなと的外れな感想を抱きながら、生返事を返した。


「はあ」
「先に言っておくが、『ヤツらの世界に転生したい』という願いは無理だ。そこまでの影響を及ぼせるほどの神格は俺にないし、何より輪廻転生は管轄外だからな。まあ、仮に転生したとしても、ヤツらにとってこの世界での出来事は白昼夢のようなもの。後味の悪さだけを残してすべて忘れているから、再会など願うだけ無駄だ」
「あ、そう。まあ別に、転生とか考えてなかったし、いらぬお世話だけどね。一応お礼は言っておこうかな」
「ちっ」


 非常にあっさりとしたわたしの反応を見て、エロドさんはつまらなそうに舌打ちした。エロドさんサディスト気質だし、どうせわたしの落ち込む姿を見たかったのだろう。ふふん、思い通りにいかなくて残念でした!

 正直に言えば、彼らに──霧崎の子たちに忘れられてしまうのは、寂しいものがあるけれど。得体の知れない場所で、奇々怪々な出来事に巻き込まれた記憶なんて忘れてしまった方がいい。澤部のような狂人ことも、わたしのような死人のことも、何もかもなかったことにしてあるべき日常に戻れるなら、それが一番いいと思う。


「少しだけでいいから、兄さんと話したい」
「……それくらいなら良いだろう。電話回線をいじる程度なら容易いことだ」


 エロドさんにはどこまでできて、どこからができないのか。その範囲が気になるところだが、どうせこれきりだ。知ったところでどうしようもないし、疑問は思考の遥か彼方へ投げ捨て、スマホの電話帳を開く。


「兄妹水入らずの話なんだから、どっか行ってくれません?」
「……やれやれ。言っておくが、この世界が完全に崩れるまでそう時間は長くない。長話はできないと思えよ」


 そう言い残して、エロドさんは景色に溶けるようにして姿を消した。

 正真正銘、この世界にはわたし一人きりだ。


「……」


 電話帳の中から兄の名前を選択し、震える指でタップする。慣れた接続音のあと、コールが一回、二回、三回──


『……透?』
「…………にいさん、」


 スピーカー越しに、兄がわたしの名前を呼んだ。たったそれだけのことで視界は滲み、ぼろぼろと涙が落ちる。


『本当に、透なのか……?』
「うん」


 もっと色々なことを話したかったはずなのに、頭の中も心の中もぐちゃぐちゃで、短く頷くだけで精一杯だった。


『な、んで、お前……死……っ……』
「……ごめん、ね」
『っ、ごめんじゃないだろ! どうして……っ、どうしてお前が殺されなきゃいけなかったんだよ!!』


 兄の声は涙混じりだった。堪えきれずに謝ると、悲痛な叫びが鼓膜を突き刺す。兄の悲哀と呼応するようにずきずきと胸が痛み、どろどろとした思いが溢れ出す。

 生きたかった。死にたくなかった。もっと、もっと、もっと──。際限ない願いはもう叶わないと知っている。だけど、そんなのは嫌だと心が叫んだ。どうしてわたしが。どうして今。どうして。なんで。なんで。なんでなんでなんでなんで!!


『お前、まだ、これからだっただろうが……!!』


 わたしだって。

 生きて幸せになりたかった。


『っ……く、……ふ……』
「……ごめんなさい」


 泣きじゃくりながら謝罪を繰り返し、やっぱりな、とどこか他人事のように思った。母よりも、父よりも、妹や弟や友達よりも誰よりも、わたしにとって頼りになる人だから──大きな存在だった兄だからこそ、我慢して堰き止めていたものが流れ出してしまう。

 わたしは、この人の前でだけはいい格好ができない。かっこつけも見栄っ張りも、どうしても兄相手には通用しないのだ。弱いわたしを知っているこの人に、取り繕うことなんて不可能だった。

 だけどそれは、虚勢を張る必要がないぶん、良くも悪くも素直になれるということでもある。──生への切望はもちろん、最後に伝えるべき感謝だって。


「兄さん」
『……』
「勝手に死んで、殺されて、ごめんなさい。兄さんにいっぱい助けてもらったのに、何も返せないまま死んじゃってごめんなさい」


 それからひとつ、深く息を吸って。


「ありがとう」
『っ』
「いっぱい助けてくれてありがとう。わたしの兄さんでいてくれてありがとう。……わたし、兄さんの妹で良かったよ」
『……透』
「母さんたちのこと、よろしくね」
『透っ──』


 兄の何か言いたげな雰囲気を感じながらも、わたしは通話終了をタップした。崩壊の一途を辿る体育館は『もうすぐ』だろうし、わたし自身、兄とこれ以上の会話を続けるには辛かった。


「……っ、うん。まあ、これはこれで、かな?」


 あの子たちのことや、兄さんたちのこと。まだまだ色々と心残りはあるが、言いたいことを言って、馬鹿みたいに騒いで、寄り添ってもらったりなんかもして。特別な存在ではない、生涯通してただの一般人でしかなかった死人には、十分過ぎるほどの餞別を貰った。

 辛い気持ちも、悲しい気持ちも、消えることなく燻ったままだけど。

 それでも確かに、この上なく満ち足りた気分だった。


「だけどもし、また君たちに会えたら──」


 最後の呟きを飲み込むように、瓦礫が世界を塗りつぶす。



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