ハンプティ・ダンプティ | ナノ
第三節 君は愛しの羊飼い(1)


 じんじんと熱を伴う痛みに、まどろんでいた意識が覚醒する。ああくそ、やっぱり腫れたのか。昨晩の出来事を思い出し、布団に顔をうずめながらため息をつく。せっかくの休日だし、できることならもっと惰眠を貪っていたかったところだけど、このまま患部を放置しておけば治りが遅くなってしまう。休み明けには腫れを落ち着かせておきたいから、本当に嫌だけど、大人しく起きてさっさと手当てを済ませてしまおう。

 もぞもぞとベッドの中で腹ばいの体制になり、サイドチェストの目覚まし時計を手探りで確保。眠い目をこすりながら時間を確認すれば、まだ朝の五時を過ぎたくらいだった。この時間ならあの人もまだ眠っているはずなので、行動を起こすなら今がチャンスだ。のろのろと身体を起こし、着替えを済ませて台所に向かった。


「おなかすいた……。なんか食べられるもの、あったっけ」


 冷凍庫から小さな保冷剤を出し、ハンカチでくるんで晴れ上がった左頬にあてながら、食料を物色する。……ふむ。菓子パンに、レトルトパウチの雑炊、同じくレトルトのカレー、エトセトラエトセトラ。まあまあ食べられそうなものは揃っているけれど、イマイチこれというものがない。空腹なのに食欲がない、とでも言おうか。困った末にとりあえず野菜ジュースをコップについで、それで空腹を誤魔化すことにする。『何を食べようかなー』とぼんやりと考えるものの、五分くらい経っても答えが出なかったので、とりあえず手当てを先に済ませることにした。

 救急箱を漁って湿布を取り出し、引き出しから鋏を取り出す。それらを持って洗面所に移動し、鏡とにらめっこしながら左頬に湿布をペタリと貼り付けた。もちろん、湿布の元のサイズだと大きすぎるから、半分に切ってからだけど。湿布のヒヤッとした冷たさと、薬のすーすーした感じがすごく気持ちいい。今日と明日、湿布を張っておけば月曜日にはマシになるだろう。……あ、しまった。湿布の匂いのせいでますます朝食を食べる気が失せた気がする。湿布の匂いに嗅覚が麻痺するまでは、野菜ジュースで我慢するしかなさそうだ。

 のんびりと野菜ジュースを味わって、空になったコップはすぐに洗って伏せておく。時間はそろそろ六時くらい。ぼちぼちあの人が起きて、出勤の準備を始める時間である。……朝からあの人を振り回すのもあの人に振り回されるのも面倒だし、鉢合わせするに前にさっさと部屋に戻っておくか。そそくさと部屋に戻ったわたしは飲み物用のごく小さな冷蔵庫からカフェオレのペットボトルを出し、キャップを開けて喉を潤した。牛乳と砂糖が多めのそれはとても甘ったるくて、祥吾君やヨウくんは好きじゃないみたいだけど、わたしにはこの甘ったるさがちょうどいい。じんわりと染み入るような甘さにささくれ立つ心を落ち着かせ、あの人が出て行くまでの二時間を過ごすべく、スマホのソシャゲアプリを立ち上げるのだった。










 母親が家を出たのと同時に、ピロン、とスマホから通知を知らせる音が鳴る。定期的なアプリのプッシュ通知がされる時間には少し早いし、一体何ごと? と確認すれば、どうやら祥吾くんからのメッセージを受信したらしい。急にどうしたんだろうと疑問に思ったのはわずか一瞬で、メッセージの内容を確認するや否や、テンションが爆上がりする。了解、とわたしはすぐさま祥吾くんに返信を済ませると、部屋着から外出用のお洒落着に着替え、洗面所に駆け込んだ。……せっかく可愛い弟分からデートのお誘いが来たんだもん、そりゃあ喪女だって気合を入れるってものでしょ?

 財布などの荷物はカバンに放り込み、スマホは上着のポケットへ。左頬の湿布は髪の毛だけじゃどうしたって隠しきれないので、マスクをつけて顔の半分を覆い隠す。こんなもんかな、と自分でも納得のいく仕上がりになったら、鍵を持って家を出た。施錠を済ませたところで隣の家の玄関ドアが開き、眠たそうな顔をした祥吾くんが欠伸をしながら出てきた。身長はすっかりわたしを越してしまったけれど、まだまだ子どもっぽさの抜けきらない幼馴染はやっぱり可愛いなと、自然と笑みがほころんだ。


「おはよ、祥吾くん」
「はよ。……またやられたのか」
「まあね。でも、いつものことだよ」


 目ざとく頬の湿布に気付いた祥吾くんは、あのクソババア、と舌打ちしながら悪態をつく。

 うーん……わたしのためにこの子が怒ってくれるのはもちろん嬉しいんだけど、こればっかりはね。仕方ないね。というわけでこの場は苦笑を返すだけに留め、その代わり、いつものように祥吾くんの手を取った。


「それで、今日はどこ行く?」
「あー、マジバに朝メシ食いに行こうぜ。んで、そのあとゲーセン」
「オッケー! わたし、起きるのは早かったんだけど、朝ごはんまだでさ。今日は何にしよっかなー」
「起きるの早かったって、何時に起きたんだよ?」
「確か、五時くらいだったはず?」
「……よく三時間も何も食わずにいられたな? オレなら無理だわ」
「水分補給で騙し騙しいたからね」
「それでも無理だっつの」


 だらだらと話しながら、繋いだ手を揺らし、近所のマジバまでの道を歩く。いつの間にか、祥吾くんの手のひらはわたしのものより一回りくらい大きくなっていて、包み込むように私の手を握っている。きつすぎず、かといって緩すぎることもない、ちょうどいい力加減。伝わってくるぬくもりに胸がポカポカして、無意識のうちに頬がゆるむ……けど、不意に左側がピリッと痛んだ。


「大丈夫か?」
「ん、平気。ちょっとピリッとしただけだから」
「……やられたの、昨日だろ。すぐに冷やしたりしなかったのか?」
「いやー、そうしたいのは山々だったんだけどさ。あの人、昨日は結構カリカリしてて、距離を置くことを優先しちゃったんだよねぇ。そしたらこのザマよ。……まあ、傷が増えるよりはマシだったかなって」


 へらりと笑えば、再びピリリと痛みが走る。でも、そんなのは些細なことだ。今のわたしにとっては、ぎゅーっと眉を寄せて、唇をへの字に曲げた幼馴染の方がよっぽど大事だから。


「ねぇ、祥吾くん」
「あ?」
「ありがとね、気分転換に誘ってくれて」
「……おう」


 祥吾くんと繋がった右手に、ちょっとだけ力をこめる。

 わたしが母親に手を上げられるたび、こうして独りにならないように寄り添ってくれる優しくて可愛い幼馴染が、わたしは大好きだ。










 やっぱり食べ盛り&伸び盛りの男の子だからか、祥吾くんら朝からよく食べた。わたしなんてモーニングメニューすらちょっと多いかな、と思うくらいなのに、モーニング以外にもいくつかオマケをつけたガッツリメニューをぺろりと平らげてしまうんだから恐れ入る。レギュラーメニューにしたってふたつとか、多い時はみっつも食べちゃうんだもんな……成長期男子の胃袋って本当に未知数だと思う。

 マジバで朝ごはんを食べながらゆっくりしたあとは、当初の予定通りゲームセンターに向かった。わたしたちの家からは少し離れた場所にある、けっこう大きいところ。わたしとしては近所のちっちゃいゲーセンでも良かったんだけど、祥吾くんがこっちに行くって譲らなかったんだよね。ま、この手の気まぐれはわりとよくあることだし、今日一日くらい祥吾くんとのお出かけで潰したって問題ないし、別にいいんだけどね。

 ──なんて、いつもの気まぐれだと思っていた時がわたしにもありました!


「ほらよ、嘉夜。取れたぞ」
「っ、ありがとう祥吾くん!」


 祥吾くんがクレーンゲームの景品口から取り出した、とあるゲームキャラクターの大きなぬいぐるみを受け取る。
 ピンクの悪魔に並ぶ人気を持つこの子は、わたしがまだ、狛枝透だった頃からずっと好きなキャラクターで。しかも今日から新しくクレーンゲームの景品に追加されたばかりのニューフェイス! 両手で抱えられるくらい大きなぬいぐるみを人目もはばからずに抱きしめて、嬉しい気持ちでゆるゆるになった表情を取り繕うこともせず、見事ゲットしてくれた祥吾くんにありがとうを伝える。祥吾くんはわたしの頭をくしゃりと撫でると、はにかみながら笑っておう、と小さく頷いた。

 祥吾くんが近所のゲームセンターではなく、こちらに来たがったのはたぶん、このぬいぐるみを確実にゲットするためだったんだと思う。今までにも、なんの脈絡もなく、この子やピンクの悪魔のぬいぐるみを『たまたま取れたから』ってくれたことがあるし。今日はきっと、思いっ切り母親に横っ面を殴られたわたしを励ますため……とか? はっきり祥吾くんに言われたわけじゃないけど、なんとなくそんな気がするな。いわゆる幼馴染の勘ってヤツだ。


「店員さんに袋もらってくるね」
「いってら」
「祥吾くん、このあたりにいる? 別のところ行ってる?」
「あー……そーだな。このあたりでうろついてるわ」
「はーい。じゃ、袋もらったらすぐ戻ってくるよ」
「おう」


 と、いうわけで、いったん祥吾くんと別行動。愛くるしい顔をしたぬいぐるみにくふくふ笑いながら、店員さんを探して、クレーンゲームの景品を入れる大きな袋をもらった。丁寧にぬいぐるみを袋に入れたら、祥吾くんのところに戻る──その前に、自動販売機のコーナーに立ち寄った。

 わたしは祥吾くんみたいにクレーンゲームが得意なわけじゃないし、そもそも、祥吾くんはクレーンゲームの景品自体にあんまり興味がない。だからぬいぐるみのひとまずのお礼として、適当にジュースを買うことにしたのだ。ちゃんとしたお礼はまた今度、夕飯を豪勢にするか、もしくはリクエストのおやつを作るってかたちでするつもり。腕によりをかけて頑張るぞ、と気合いを入れる。


「……おや?」


 祥吾くんのコーラと自分用のお茶を買ってクレーンゲームのコーナーに戻ると、そこに祥吾くんの姿はなかった。ぐるりと一周したのにまったく見つからないし、その割にクレーンゲームのコーナーを離れるっていう連絡も来てないし、一体どうしたんだろ? ……何かあったんじゃないかって、さすがにちょっと心配になるな。


「──」
「──、──!」
「……うん?」


 祥吾くん捜索の範囲を広げ、ゲームセンターを歩き回っていると、ふと入口付近で祥吾くんの声が聞こえたような気がした。……いやまさかね、と思いつつも、念のために確認すべく、声がした方へと足を向ける。


「──あ」


 念のためでも、確認を選んだのは正解だった。というのも、どういうわけか、祥吾くんがゲームセンターの外にいたからだ。しかも、……しかも何故か、揉めているっていうか、むしろ、殴られてる……?

 ──どくん、と心臓が跳ねた。目の前が真っ赤になって、頭の中が真っ白になる。だけど不思議と、思考はハッキリしていた。思考は現実から一歩引いた場所で、現実と一枚の見えない壁を隔てて、冷静に、冷徹に、わたしがやるべきことをパチパチと弾き出した。真っ直ぐ、足早に、人と人の隙間を縫うようにして祥吾くんがいる場所に向かう。

 そして、わたしは。


「わたしの幼馴染に、何か?」


 祥吾くんに向けて振りかぶられた腕を掴み、大切な大切な幼馴染を嬲る男に問いかける。
 掴んだ腕からみしりと軋む音が聞こえたような気がするけれど──うん、そんなのはどうせ気のせいだし、仮に本当に軋んでいたとしてもわたしが気にすることじゃないな。


「さっさと祥吾くんから手ェ離せよ」


 見知らぬ人間と、可愛い可愛い弟分。

 比べるまでもなく優先すべきは後者であり、前者なんてどうでもいい存在なんだから……当然だよね?



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