「…これで良かったのか?」
静かな草原にそんな声が響いた。

青い空の下、風に靡いた輝く金髪の持ち主に歩み寄る。
そうしてさわりと緑の新緑を進んでかけた声に、彼女が穏やかな声を返してきた。

「ええ、満足です」

吹き抜けて行った強い風がざあと音を立てて草を薙ぐ。
濃い草の香りに目を細めた。

「貴女の力があれば再度あちらでやり直すことができただろうに」
「そのためには彼女の器を使わなければなりませんよ。けれどそんなことをしたらあの子の人生はめちゃくちゃになります」

ずっと見守り続けてきた娘のような存在にそのようなことをするつもりもないと笑う。

「…ああ、そうだな」
「それに…、貴方のいない世界に留まる理由などあの名前から解放された今の私は持ちませんよ」
「…そうか、それでいいのか」
「もちろん。貴方こそ、良かったのですか?」

せっかく冥王に解放され、輪廻の輪に戻ることが許されたのだから何も私に付き合う必要などなかったのにという言葉に男が首を振る。

「私も、同じだ。貴女を一人残して輪廻に戻ることなど考えられなくなっていた」
「…そう、ですか。本当にそれで良いのですね」
「ああ」

空を行く白い雲が時折太陽の光を隠す、そんな中で男が女に笑いかけた。

長い金髪が風の吹くたびにふわりと宙に舞う。
温かみを帯びた、懐かしく美しいその光景に男が目を細めた。


「ずっと会いたかった」

それは神話の時代から長いこと引き離されていた男が、女に言いたくて仕方のなかった言葉だった。それを口にすることは永遠になかったかもしれない。しかし、人を愛するアテナ女神の起こした奇跡が、それを口にすることを可能にした。

親愛なる女神。
彼女には感謝をしてもしきれない。


「…また会えて光栄だ」

男の言葉に女が振り返ると青い空色の目に彼を映しだした。

「それだけ?」
「は?」
「会えて嬉しいとか、言ってくれないのですか」

くすくすと悪戯っ子のように笑いながらそう言った女に、男が一瞬目を丸くした。だがすぐに同じように笑みを見せて彼女の手を取って跪く。

「また会えて嬉しい」
「もう。跪くなど、そういった改まった態度はいりませんよ。私はもはや神ではない、貴方と同じ存在なのですから」

ようやく手に入れたと嬉しそうに笑った女に男も笑った。
嬉しそうに、幸せそうに笑った。
そして男の手を取った女が嬉しそうに笑ったまま自分の頬にその手を添えた。

「長かった、本当に」
「ああ、本当に長かった」
「でも、こうしてまた会えたのです。何も文句はありません」
「…アテナと新しい女神は、」
「大丈夫です。あの二神に、もはや私たちの心配はいりません。彼女たちにもまた幸せと平穏を享受する未来がきっと待っているのですから」

私たちのように、と言った女に男も頷いて青い青い空を見上げた。

「本当に、長かった」
「生きた時間も、戦った時間も、待ち続けた時間も」
「長く」
「空虚で」
「つらく」
「寂しいものでした」

女も青い空を見上げたがすぐに男の横顔に視線を落とした。
長い間触れることは愚か、その目にすることもかなわなかった愛おしい存在をしばらくじっと見つめた女に男が気付いて目があった。

そして男がほほ笑む。

「しかし、これからはずっと一緒にいられるのだろう」
「ええ、その通りですよ!ずっと一緒です、ずっと」

この日をどれだけ待ったかと、それでも嬉しそうに言った女に男が口を開きかけて、閉じた。
そしてまた開きかけ、閉じる。
それを繰り返す男に女が不思議そうに首を傾げた。

「どうかしましたか?」
「…いや、もし良ければ君に新しい名前を、と思って」

もはや勝利という名の楔は必要ないのだろうからと言った男に女が一瞬ぽかんとした。
それに不快なことをしてしまったかと男が慌てて訂正をしようとしたとき、女が今まで見た中で一番穏やかで幸せそうな笑みを見せた。

「貴方がつけてくれるのですか?」
「あ、ああ…、いいだろうか?」
「もちろんです!そうですね、どうせなら可愛くて、綺麗で、可憐で素晴らしい名前をお願いしましょうか」
「むっ、…」
「…ふふっ、冗談ですよ。貴方がつけてくれる名前なら私はなんでもかまいません」
「…いや、せっかくならば少し時間をくれ。可愛くて、綺麗で、可憐で君にぴったりで素晴らしい名前を考えよう」

時間はまだまだたっぷり、それこそ永遠に残っているのだ。

それまでゆっくり二人で考える時間さえ大切なものになる。
焦る必要はない。
ゆっくり取り戻していけばいい。
共に歩むことが許されなかった三千年以上もの時を。

ぴったりと寄り添う二人を、草原が、青空が、風が、小川が、花がそっと優しく包んでいた。


これからもずっと二人の手は繋がれたまま。


「愛している」
「私も、愛しています」

風でどこかの花が散り、色とりどりの花びらが青空に巻き上げられていった。

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