物心ついたころには聖域にいたと思う。
「あっ、おはよう、アイオロス!!」
包帯塗れで笑ったニケに微笑みを返す。
「おはようございます」
もう、私はずっとこの場所で生きてきた。死ぬ前も、生き返った後も、きっとこれからもずっと。
父も母も知らない。
ただ弟としてアイオリアが存在していた。
それだけ。
私は白紙だった。
外の世界のことなど知らなかった。
だから私はこの場所のことをなんら疑問に思わなかったし、教皇やアテナのことを絶対に正しいのだと信じていた。
教皇になると思っていたのはサガで、彼はそれに相応しい実力も人望もあった。
だが教皇は私を選んだ。
その理由を私は与り知ることはなかったが、それでも教皇がそうおっしゃるのならとなんの疑問も抱かずに受け入れた。
それを間違っていたとは思わない。
女神は大いなる愛を持ちこの地上を包むだろう。
アテナこそが至福で絶対だった。
だからアテナが連れてきた勝利の女神もまたそうなのだろうと思っていた。
女神、ニケ。超然として大きな小宇宙を持った女神。
神。
女神、
崇拝すべき存在。
しかし彼女は、人の温かみを持っていた。(もしかしたらアテナ、いや城戸沙織嬢も、)
私に一緒に歩いて帰ろうと笑ったのはなまえ。
人としての貴方の意思が知りたいのだと言ったのはなまえ。
ニケであるはずの彼女は、同時になまえだった。
それは冒険のような判断だった。
自分にはサガのような柔軟性はなく、頭も固いほうなのだろうと自覚している。だからこそその言葉を口に出すのはひどく躊躇われた。
「なまえ」
それでもすんなりと喉を通って出てきたその大切な名前は、何も不自由なく簡単に空気を揺らした。
彼女が振り返る。
黒い髪が風に舞って、そして彼女は今までで一番美しい笑みを、その顔に浮かべた。
「なあに、アイオロス!」
(アイオロス)
(それが、)
(私の名前)
射手座の黄金聖闘士。
それからアイオロス。
一人の人間。
なまえの言ったことはこういうことなのだろうか。
うまく言葉で表すことはまだできそうにない。
だがそれでも今まで感じたことのない爽快さに自然と頬が緩んだ。ああそうだ、冒険ついでにもう一つ。サガたちのように、小さな小さな彼女の頭でも、なまえの頭でも撫でてみようか?
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