ヘルメスが合図すると、扉の周りにいた美しく着飾ったニンフたちが恭しく門を開く。中から視線が一斉に私に向いた。

オリンポスの神々。中から漏れ出した隠しきれないほど巨大な小宇宙に一瞬足がすくんだ。


だがすぐにヘルメスに手を引かれて中に足を踏み入れた。視線がさらに突き刺さる。
それぞれにゆっくりと視線に真っ直ぐに見返した。

私には面識のない神々。それでもニケの面識のある神々。

凝った装飾の椅子に腰を掛けて円を描くように座っている。

鍛冶神ヘパイストス
軍神アレス
森と狩りの女神アルテミス
美の女神アプロディテ
酒神ディオニューソス
予言の神、フォイボス・アポローン
農業女神デメテル
大神妃ヘラ、


そして、

その一番奥の檀上、最も高いところに彼は座っていた。


天空神、天帝、大神、ゼウス。


ゼウスとは、天空という意味だ。
何も彼の上にはない。


全てが彼の下にある。


薄いカーテンに隠された彼を見上げた瞬間、彼の足元に美しい女性が立った。まるで少女のような風貌を残しながら、それでも気品と威厳に満ち溢れた彼女は、神々の女王ヘラ。ニケの記憶の中にあった彼女を見とめる。

彼女は私を見ると眉を寄せた。

「…戻れ、ここは人の訪れる場所ではない」
「勝手についてきたんですよ、ヘラ!ゼウス、オリンポスの神々に“勝利の女神”の言葉を聞かせるためにって」
「勝利の女神はもはや死に落ちた」


淡々とした冷たいその言葉に誰かが笑った。

そちらに鋭い視線を向けたヘラの目線を辿れば、頬杖をついて足を組んでいた男性がまたくつくつと笑う。酔っているのか薔薇色の頬に落ちた黒い巻き髪が美麗な顔に影を落とす。

酒神、ディオニューソス。彼が形のいい唇を三日月形にしてゆっくりと口を開いた。滑らかな声が口から流れ出る。

「この世界を統べるにふさわしい正義とは何か、ヘラ」
「黙れ、ディオニューソス」
「何にも振り返らず絶対の力を振りかざす存在か?違うだろう?」

正義の戦女神アテナと戦い、地上を収めるにはこちらも正義でなければ誰も納得しまいと彼は笑う。
正義。
彼の黒目がちの瞳に私が映り込んだ。

「我々は勝利の女神の嘆願を聞き遂げるべきだ」
「勝手なことを」
「良いだろう、俺は劇の神でもある。望まれれば誰にでも舞台を贈ろう。どんな人間であっても、舞台は必要なもの故に」

だから神々の司るそれに邪魔をしてくれるなと笑ったディオニューソスにヘラが黙り込んだ。

どの神も、自分の司るものに絶対の自信と誇りを持っている。ヘラならば結婚。ディオニューソスは酒と劇、アポローンは音楽と医術、そして予言、アテナは正義の戦いや織物などの工芸。彼らはそういったものを他者に汚されることを嫌う。それをよく理解しているからか、ヘラは目を伏せた。

「……良いだろう、ならば劇神に免じ人の子に、つかの間の話を許そう」
「…ありがとうございます」

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