青空を白い雲が流れていく。強い風が吹いて草の香りが鼻腔を擽った。

「なまえ、アテナも待っている。君に話したいことがあるとおっしゃっていた。だから、私と一緒に帰ろう」
「アテナが待っているのはニケでしょう」

差し出された手を眺めながらそう呟いた。


「ねえ、私は誰?」

その言葉にサガが眉を潜めたけれど、構っていられなかった。ぐるぐると私の頭の中を繰り返し流れるのはニケという名前。

ニケ、それだけで勝利の意味を持つ名前。ニケは勝利で、勝利はニケだ。私は理解していなかったのだ、それを背負うということの意味を。

誰もが私をニケと呼ぶ。聖域では、私をなまえと呼ぶ人間は少数派なのだ。
でもニケはもう死んでいる。私はニケではない。けれど誰もが私をニケと呼ぶ、ニケにしようとするのだ、私のことを。死んだ女神の代わりに。

ニケさえも、そうだ。私に彼女の記憶を植え付けてどうするの?私を消した後私の体に残るのはニケとしての意思?それなら私は何処に行くの?私は誰?なまえよ、私はなまえ。でも誰もそれを望んでいない。

「ニケがいればいい。なまえはいらない。だから、私は、死んだ方が良いって、」
「っ」
「…あ…」

サガが驚いた顔をしたあとに、ぱしりと乾いた音が響いて、じわりと頬が熱くなった。
すぐにしんとした空気に吸い込まれて消えたその音に、一瞬気のせいだったのかと思ったが頬の熱さは気のせいではなかった。


叩かれた。

そう知ってサガを見上げた。けれど、私より痛そうな顔を彼がしていたから結局何も言えずに口を閉じた。サガはそのまま眉を潜めて目を伏せたり開いたりをしていたが、やがて口を開いて低い声で言った。

「軽々しくそんなことを口にするものではない」
「…だって皆きっとそれを望んでいるんだよ!必要なのは私じゃない、ニケなんでしょう!!」

怒鳴りつけた私にサガも同じように声色を少し強めた。

「なまえ、お前はお前だろう!そうではないのか」
「そう思っていたよ!でも私は甘かった!深く考えたことがなかったからそんなことを言えたんだよ!」


アイオロスにも射手座の聖闘士とアイオロスという個人は違うと言った。
勝利の女神となまえが違うということもわかる。けれど、でも、今の私には分からないのだ。それらを二つ、わけてしまうと“わたし”という存在がなんなのか、分からなくなる。


「では聞くが、私と共に夢を為そうと言ったのは女神としての義務だったのか?」
「ち、がうよ、それは違う…っ、あれはなまえとしての、わたしの本心だった!今も、」
「それなら、お前はなまえだ」

私はずっと分からなかったと言ったサガが私の頬に手を添える。暖かい、手。

「なまえとニケ、人間と女神。私はその違いがずっと分からなかった。人間と女神と言えばその違いは明白であると言わざるを得ないが、それがなまえとニケになった途端境界はメルトダウンを起こす。だから私はずっと分からなかった」

だがそれで間違っていなかったのだと目を伏せたサガが微笑みを浮かべる。

「なまえは、なまえだった」
「わたしは、わたし、」

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