「なまえ」
名前を呼ばれて、その声が良く知ったものだったからすこしだけ顔を上げた。
「サ、ガ」
「なまえ、私だ」
どうしてここに彼がいるんだろう?
ぼんやりとサガを見た私に彼が微笑んで歩み寄ってきた。肩に彼の手が置かれる。
「…どうしてここに?」
ここは私の逃げ込んで行きついた場所だ。夢、精神。なんにせよこれ以上先はないし、誰かがここに来れるはずもない。けれど目の前にいる彼からは確かにサガの小宇宙を感じた。
「なまえを迎えに来た」
そう言った彼が微笑んで手を差し出してくれる。
大好きな笑顔だった。
大好きな手だった。
目の前にいるのは紛れもなくサガだった。
でも、私にはその手を取ることができずに首を振る。
迎えに来たということはこれから彼が向かうのは聖域だろう。だとしたら私はその手を取れない。私は聖域に戻れない。戻りたくない。
「帰ろう」
「無理だよ」
首を振った私のことは想定内だったのか、サガは穏やかな声で「何故」と言った。
答えは簡単だった。私がニケではないからだ。
私は馬鹿だ。
自分で聖域に残ることを望んだ。
自分で勝利の女神になることを望んだのに、いざその場面になるとしり込みをする。それが何かたまらなく恐ろしいことのように感じる。
ニケの真似をして、こんな格好をして。
それでもやっぱり聖域に帰ることが恐ろしいのだ。
自分でもどうしたいのかもう分からない。
沙織や、サガの傍にいたいと願う。けれどそれを願うのはなまえだ。でも聖域が望むのはなまえではなくニケ。それなら私はニケになってでもサガや沙織の傍にいたいと願う。
でも、それでは違う。
結局彼らの傍にいられるのは私ではない。
ニケだ。なまえではない。そしてニケはきっとサガたちの傍にいることを望まない。彼女が望むのは愛したあの人間の傍にいることだけだ。
私は結局今までニケであると言われたからそれをそのまま受け入れてきただけだった。
だからニケが死んだという事実を知っただけで動揺した。
誰もが私をニケと呼ぶ。なまえは必要とされていない。
どうすればいいのか。どうしたいのか。私にももうよく分からなかった。
ぼろぼろと目から零れたそれが煩わしくて俯いた。拭っても拭っても止まらないそれが腹立たしい。
ニケになりたいけれど、なりたくないのだ。結局行き着くのはそこで、そこで繰り広げられるのは常に堂々巡りだ。
「なまえ」
それでもサガは私をなまえと呼んだ。
ひどく穏やかなその声色に顔を上げる。青空を背後に柔らかく笑うサガと目があった。暖かな手が優しく目元をぬぐって涙をはらった。
「泣くな、なまえ」
「サガ」
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