すぐに静かになった廊下で列柱の一つに背中を預けてアイオロスを見た。


彼の藍緑色の瞳とまっすぐに目が合う。

どこかで、雨が降り出したのだろうか。かすかに湿った空気の中で彼を見上げた。


「貴方とアイオリアの問題に、確かに私は口を挟む権利なんて持っていないよ」
「…そういうつもりで申したわけではありません」
「ねえ、アイオロス。それでも私はアイオリアと貴方に女神として扱えなんて命令するつもりはさらさらないの」

その言葉にアイオロスが眉を潜めた。

分からない?


そうかもしれない。これまで聖域で過ごして、かたくなに私をニケとして扱い続けたのは女官さんや巫女さん、雑兵の人を除いて、アイオロスだけだ。親しくなった人たちの中で、唯一彼だけ。そしてそれは誰かの命令ではなく、彼自身の意思。アイオロスがそうしたいと考えてきたこと。


ずっとそうして過ごしてきたのなら、彼にはきっと私のことは何も分からない。彼はいつだって私にニケを見ている。

「私は確かにニケを名乗ってはいるけれど、その前になまえという人間なの。神に対する扱いを皆に強要するつもりはない」
「それでも貴女はニケだ」

女神であると、彼ははっきりとそう言った。

それなら、と私は思う。
なまえとしての自分とニケとしての自分。
彼が、私をそのうちから女神として判断したと言うのなら。


それは構わない。

けれどそこには一つの問題があるのだ。


「それは射手座の聖闘士として言っているの?それともアイオロスとしての意見?」
「…どういう意味か、分かりかねますが」


雨の音が聞こえる。

降り出したらしい。列柱に背中を預けたままふと外を見れば、どんよりと重い雲がとうとう耐えきれなくなったのか、大粒の雨を降らせていた。


しばらくそれを眺めた後にアイオロスに向き直る。

彼はずっと私を見つめていた。



どういう意味か、分かりかねると彼は言った。
それはおかしい。彼は知っているのだ。けれどそれを知らない。事実をすでに彼は持っているのに、彼はそれに気が付いていないだけなのだ。

あの雨の夜に、サガとした話を思い出す。
彼は全て素直に話し、小宇宙を通じて彼の見たものを私にも見せてくれた。

その中にあったもの。
サガが沙織に剣を突き立てようとしたのを邪魔するアイオロス。
彼は、女神に振り下ろされた剣をはらう際教皇のマスクをも吹き飛ばした。

その瞬間サガの見た彼の眼は、驚きに見開かれた。


「貴方は気づいていたはず。アテナを殺そうとしたのがサガだということに」
「………」


アイオロスは答えなかった。

けれどそれが何よりもはっきりと答えを告げている。
何故それを誰にも伝えなかったのかという私の問いにも、彼は沈黙を貫いた。


「貴方が何を思って黙ってここを去ったのか私には分からない。でも、それは確かに貴方自身の意思だったんじゃないの?」
「…………」
「貴方が誰かに教皇の正体を伝えていれば、たちまち形成は逆転したはず。手段はいくらでもあった。小宇宙を通じてでも、直接追ってきた人間に伝える方法でも。射手座の、女神の聖闘士としての行動はそちらのほうが正しかったはず。だってそうすれば女神は聖域から逃れ隠されて生きることはなかっただろうから。それでも貴方はそうしなかった。黙って、教皇の正体を誰にも告げることなくただ、逃げた。ねえ、それはつまり貴方がそれを望んだのではないの?」

例えば、友達を、サガの名誉をもしくは彼自身を守りたかった、とか。


その理由はきっとアイオロス自身にしか分からないことなのだろうが、それでもそこには確かに彼の意思があったはずだ。それは人間らしい考えではないのか?

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