だが、こいつはそれをしない。
それどころか間抜けな顔で今日は月がきれいだねーときたもんだ。本当にふざけている。

サガとアイオロスの話、アテナの静かな怒りから見ても分かるように相当ひどい傷を受けたはずだ。サガがそれを治癒したらしいが、その時受けた痛みと恐怖は記憶に残る。それを晴らす機会をこいつは自ら放棄した。

「何故かばった」

やつはしばらく黙り込んだ後に口を開いてきっぱりと言い切る。

「だってあの人は何も悪くない」
「あれはここの定理でいうのなら悪だ」
「でも私は悪とは思わない」

なるほど自分を殴った人間を悪とは呼ばないかと繰り返した俺に、やつは微笑んで頷いた。

「あの人はアテナのことを想いすぎただけだから。私はそれを否定しない」
「ならば正義とはなんだ」
「ええ?難しいな、…正当な義理とか、そういう…」

なんていうのかな、と言葉を切った奴が顎に指を添えて再び口を開いた。

「結局個々の価値観に委ねられちゃうんじゃないかな?喧嘩とか…もっといっちゃえば戦争だってそうでしょ、どっちも自分が悪いなんて思ってないんだよ。自分が正しいって主張する一つの手段がそういった暴力行為なだけで。まあ、暴力自体を悪っていう人もいるけれど、それだってつまり個々の価値観でしょ?」


そう言った馬鹿女が「違う?」と言って肩をすくめて見せた。

「………」


正義が個々の価値観か。

それは至極真っ当な意見で、同時に聖域の女神、そしてアテナの従神が口にするにはこれ以上ないほど奇妙な言葉だった。

なぜならアテナは正義を愛する女神だ。聖闘士は正義の集団だ。
その真偽はさておき、誰もがそう信じている。

だが、今こいつが言った通り、正義が個々の価値観に委ねられてしまうとそれらの信仰は根本から崩れることになる。
それはある種アテナに対する不敬罪だ。聖域での正義はアテナのみ。俺達はただ神に従いさえすれば良く、またそれ以外を認められない。

アテナ以外の正義は全て切り捨てられる。しかしアテナの従神であるこいつはその切り捨てられるだろう正義を認めている。


おかしな話だ。
だが考えてみれば、地上を救うというアテナが聖戦の際にしか降臨しないというのもおかしな話なのだ。

アテナの興味は聖戦にある。
アテナは聖戦の際にしか降臨しない。地上の危機には降臨しない。つまり、アテナの興味は聖戦にある。

地上の平和ではない。


聖戦の勝利した結果、偶然人間が生き残るという結末があるだけでそれはアテナが守るものではないのだ。なぜならアテナは地上の平和のために聖闘士を使わない。聖闘士を使えば解決できる問題はそこらじゅうに散らばっている。12時間以内に強制的に平和を訪れさせることも可能だ。だが、アテナはそれをしない。地上の平和には関与しない。

なら何故アテナはハーデスと戦う?人を生き残らせるためだ。地上を今のまま残すためだ。だから神々の介入にアテナは介入する。だが人の為すことには見て見ぬふりを決め込む。

それは何故だ?
…そんなことは知ったものではない。今考えるべき問題でもない。

だが結論として存在するのは、神は人を救わないということ。

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