「分からぬか?」
「…はい」
それはどちらだと彼は聞いたが主語のないそれに答えられるはずもない。そもそも何の話なのかさえ分からないのだから仕方がないのだろうが。

「良いだろう、では待て」

そうして固まった私を笑うような声色でそう言った彼が立ち上がってカーテンを掻きわけて奥から出てきた。暗い湖の底のような瞳に私が映り込む。


彼は無表情に私の目の前まで歩いてくると私を見下ろした。私も彼を見上げる。やはり綺麗な目をしていると私が考えたときハーデスは言った。


「お前は自分をなんと心得る、神か、人か」
「人です、…あ、いや、神です」
本心を言ってしまえば、私はしがない人間だと思っているのだが、勝利の女神として来ているこの場所でそれを言うのはまずいだろうと慌てて訂正する。

「なるほど、それが今の中身か」

やはりお前もアテナの寵愛する女神だっただけあるらしいとくつくつと笑ったハーデスが口元を手で覆った。

「良い、良い、気に入った」
「はあ、どうも」
「ニケ、人としての名を何という」
「なまえです、ハーデス」
「なればなまえ、一つ助言をくれてやろう。迷える羊の行く術を示すのもまた神の業故な」


とたんに顔から笑みをかき消したハーデスが私を見下ろして口を開いた。


「勝利に惑わされるな、お前はお前でありそれは何者にも不可侵の、ある種の神聖を持つ特権。なれば勝利を理解せよ、天空の見せる幻惑を鵜呑みにするな、やがてそれ故起こるであろう崩壊を食い止めるにはお前がかの女神を理解する必要がある」
「あの、かの女神って…?」
「もはや話すことはない、下がれ、なまえ」

かの女神ってどの女神のことだと言いたかったが、もう興味をなくしたらしい彼はさっさと背を向けてカーテンの奥へ戻って行ってしまった。それをじっと見送った後、これ以上ここにいても迷惑になるだろうと考えて一礼して去ることにした。

暗く広い部屋に自分の靴音が響くのを聞きながら扉に手をかける。

「失礼しました」
「…なまえ、遠きこの地までよく来たものだ。心行くまで休息を楽しんでいくが良い。…この陰気な場所で良ければな」

カーテンの向こうでそう言った声を聞いて笑った。まさかここの主自身が陰気という言葉を使うとは思わなかったからだ。「今度来るときはお土産に花束でも持ってきましょうか」「…お前は物怖じしない妙な奴だな。神話の時代からニケとはそういう存在なのか」くつくつとカーテンの向こうで笑う声を聞きながら扉を開けた。すぐ傍で控えていてくれたらしいサガが歩み寄ってくるのを見ながら冥王へ振り返った。

「ハーデス、聖域にいらした時は是非私を呼んでくださいね」

綺麗な花畑を知っているからという言葉に、彼は笑っただけで何も返事を返さなかった。

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