「うぐっ」 「え、おいっ!」 そして、まさにそれは一瞬の出来事だった。 「むっ」 「ぶっ」 「・・・んん・・・」 勢いよく倒れ込んだアイアコスがなまえに倒れこむ。私には、その瞬間に、ぴしりと世界に亀裂が走ったように感じた。そうしてそのまま全ての思考が一時停止する。 「・・・・!!!」 「・・・事故だ」 「ああ、事故だな」 「でもキスはキスですから」 シュラが呟き、それにアフロディーテが同意を示し、ミーノスが否定をした。 だが、私には正直そんなものに構う余裕もなく。 「・・・・・」 アフロディーテが引きはがしたアイアコスによってなまえの顔が見えた。そして、それにまた頭に血が上るのを私は感じる。彼女の唇には、アイアコスの歯があたったのか、若干の血がにじんでいた。 「・・・・・」 「・・・アイオロス?・・・うわっ、おま、何良い笑顔で弓構えているんだよ!笑えないぞ、そのジョーク!!」 酒を片手に通りかかったミロとカミュ。 カミュは周りを見渡して状況を把握したのが、黙ってアイアコスに向けて合掌をし、ミロは顔を引き攣らせて私に掴みかかってくる。だが、そんなことは気にせずに周りに私は精一杯の笑顔を浮かべて声をかけた。 「誰かアイアコスを壁にでも立てかけてくれないか?見事に脳天を射抜いてみせよう」 「良い酒の余興ですね。是非上手く頼みますよ」 伸びきったシャツをしばらく見つめていたミーノスが笑顔でアイアコスを壁に立てかけた。アイアコス本人はすでに眠っているのか、はたまた気絶をしており、なんの抵抗もすることはなかった。私としては好都合に過ぎる。これは女神がくれたチャンスに違いない。 「よし、よく見ておけよ」 きり、と弓を引き絞ったところで、肩を叩かれた。振り返れば、胃を押さえたラダマンティスが眉を顰めて私を見ていた。 「射手座、こいつには俺が良く言っておくから弓を納めてくれ」 「・・・」 その背後で何故かサガまでもが胃を押さえている。なんで彼が胃を押さえるのか一瞬不思議に思ったが、私がアイアコスの脳天を射抜いた後責任問題や聖域冥界間の協定などの書類で忙殺されるのは彼だったと思いだし納得する。もう終わった後のことまで考えているとは、サガも余裕だな。 「なまえは私の恋人だ」 「・・・アイアコスは縄で縛りあげてミーノスの考えた拷問フルコースを味合わせておくから、ここは武器を置いてくれ」 「・・・分かった」 何より、ここはアテナのおひざ元でもある。問題を起こすのはどちらにとっても最悪なのは間違いないだろうと弓を納める。ようやく胃から手を離したラダマンティスはアイアコスの首根っこを掴んで教皇の間から出ていった。 ふと目に入ったなまえは相も変わらずソファで眠りこけているままだった。唇が切れていることなど気づいてもいないらしい。きっと朝起きて、何故唇が切れているのかと悩むのだろうなと考えて、なまえを抱えあげる。相変わらず彼女は軽いままだった。 「戻るのかい?」 「なまえを部屋に。ここでは騒がしくてよく眠れないだろう」 「なんだったら、アテナに挨拶をして、アイオロスも宮に戻ったらどうだい?鬼のような形相をいているよ」 アイアコスを討ち損ねたのなら仕方がないけれどと、ふざけているのかそうでないのかよく分からない台詞を笑いながら言ったアフロディーテに肩を竦めてみせる。 「いいや、なまえを部屋に返したらまた帰ってくる。親交も任務の一環だからな」 「そうか。なら私は何も言わないよ」 そうにっこりと笑ったアフロディーテに背を向けて、私は一度教皇の間を出た。 「っと」 なまえを寝台に横たえて、シーツをかけてやる。大雨が窓を叩いていた。なまえの部屋は窓が大きい。だが、少し先も見えない強い雨のせいで、今それはなんの意味も持っていなかった。 「ん、う・・・」 一瞬眉を顰めたなまえの頭を撫でてやれば、すぐに穏やかな寝顔に戻った彼女に僅かに笑みが漏れた。 しかし、ふと視界に入った血のついた唇に、どこかいらつきを覚える。なまえは、私の恋人だ。だから、たとえ事故であろうとアイアコスのしたことは許せない。ならば、アイアコスに怒れば良いのに、愚かな私はなまえにさえ僅かないらつきを覚えたことに気がついて慌てて頭を振る。なまえはそこで眠っていただけだ。何も悪くない。それは分かっている。分かっているはずなのに、 柔らかな頬を撫ぜる。 「君は、私のものだ」 雨足が、一層強まったように感じた。 風ががたがたと窓を揺らす。流れる水が途切れることなく窓を伝っていくのを気にせずに、私は眠るなまえを見つめた。私は馬鹿だ。確実に嫉妬する相手を間違えている。 どうか、この汚れた感情がこれ以上表に出てきてくれるなと心に念じながら、そっとなまえに口づけた。 彼女の唇は血の味がした。 「・・・・・・」 ぺろりと彼女の赤い唇についた血をなめとる。なまえは目を覚まさなかった。 「・・・」 そっと唇に手を添えて小宇宙を流してやる。手を離せば、そこに傷は跡形もなくなっていた。これできっと、朝目が覚めた時彼女は今晩何が起きたのか気づくことはないのだろうと考えて溜め息をつく。 私には、それが良いことなのか、それとも悪いことなのか、わからなかった。 君の恋人は私だけだと、 (思い知らせてやりたいなんて、愚かな考えだろうか) |