Episode 1
ゆらり、ゆらりと天上が揺れていた。
差し込む光もそれに合わせてゆらゆらと角度を変える。
「…!」
その光に照らされた雄大なポセイドン神殿の入口でぼんやりと座っている女を見つけた。一体こんな場所で何をしているのだか。飽きずに毎日海上ばかり見上げているこの女はどうやら相当暇らしい。
「なまえ」
「あら、カノン。ちょうどよかった、暇してたの」
「お前に付き合っている時間はない」
「そんなこと言わないで。地上のお土産もあるわよ」
「いらん。というより、またお前は地上に行っていたのか」
にこにこと楽しそうに言ったなまえに頭を抱える。
それはこの女が海界から出ていけと言っても聞かない癖に、頼んでいないときに勝手に人魚姫と地上に出て問題を起こして帰ってくるからだ。後始末をするのは誰だと思っているのか。
「今度は何をした?船乗りを溺れさせたか?それとも船でも沈めたか」
「この間の船乗りは勝手に船から落ちて来たのよ!私のせいじゃないわ。それから船を沈めさせたことはないわ」
「・・・それで?何時の間に地上になど行っていた」
「ちょっとテティスと一緒にね」
なまえはぶらり旅行です、なんてふざけたことを言いながら腰かけていた遺跡から立ち上がって、埃を叩いた。そのままこちらにぱたぱたと駆け寄ってきたかと思えば、
「眉間にしわがよっていますよ、カノンさーん」
「やめろ」
ぐりぐりと眉間のしわに指を当ててきたなまえの細い手をとって溜め息をつく。
こいつといると溜め息しかでない。ああ、そうかこいつが馬鹿だからか。馬鹿の相手をしているときほど疲れることはないからなと納得してため息をひとつついてやる。
「・・・いい加減どこへでも失せろと言っているだろう。お前は邪魔だ」
「どうして?」
「海界にお前は関係ない。そもそも何処から現れたんだ、お前は・・・」
妙に人魚姫と親しいようだが、どうも海界に縁のある人間には見えない。
いつもへらへらふらふら、何かを食べているか、魚と遊んでいるか、人魚姫と談笑しているか、だ。
この際だ。
はっきり言おう。この女の存在意義がまったく見出せない。
むしろ邪魔である。ある日突然この海底神殿に現れたかと思えば、それから永遠と入り浸っている。ただの人間が、だ。ポセイドンにでも感づかれたら一体どう言い訳をすればいいのだ。問題を起こす前に帰れと見下ろしたが、なまえはへらりとした笑みを浮かべただけだった。
「どこから来たか、うーん、難しい質問だね。まあ、日本、かしら?」
「何故疑問形なんだ」
「さあ、何故でしょうね?」
くすりと笑ってはぐらかすなまえに、それ以上の問答は無意味だろうと背を向ける。
だが、まったく気にした素振りも見せずに後ろをついてくるなまえに顔が引きつったのを感じた。
「何故ついてくる!」
「カノンはどこに行くの?」
「海龍と呼べ」
「・・・。・・・せっかく素敵な名前なのに、勿体ないわ」
「お前には関係ない。そもそもお前は」
「あ!テティスー!」
「なまえ様!」
「・・・・・・」
会話とは、こんなにも腹が立つものだっただろうか。
聖域にいたころはサガ、あるいはほんの一握りの人間としか会話をしたことはないが、ここまで頭にきた覚えはない。
そうだ、こんなにも俺がいらつくのはすべて、この馬鹿女のせいだ。こいつが馬鹿だからか。そうか、なるほど俺は悪くない。
「いたっ!どうしてたたくの!」
「その足りない脳で考えてみたらどうだ」
「うーん、分からないわ。・・・まあ、いいや。テティス、聞いて!私、昨日カップケーキを作ったのよ。後で食べに来て?」
さっさと話題転換して、へらへらと笑い始めたなまえに、また顔が引きつった。本当にいちいち無性に腹が立つ女だ。
「カップケーキを?ぜひご一緒させてください!」
「よし行こう、じゃあ、行こう、今すぐ行こう!作った部屋に置いてあるの!うぇ」
「待て、馬鹿女」
人魚姫の手を取って、走りだそうとしたなまえの襟首を掴む。
まったく色気のない蛙のつぶれたような声を発したなまえに、内心鼻で笑ってやりながら見下ろす。
「いきなり何するの・・・」
「何処へ行く」
「ま、まさか・・・!私と一緒にいたいの?じゃあ結婚しちゃいましょう!私は大歓げ・・・」
「ふざけるな」
もう一度頭を叩いて、どこに行くのだと再度聞けば、予想通りの返答が帰ってくる。口をとがらせながら俺を見上げたなまえの言葉に、もう頭を抱えたくなるほどの頭痛を感じた気がした。
「海底神殿よ」
「なるほどつまりお前は、神聖な神殿でカップケーキなんぞを作っていたわけだな?」
「あっ、ついでにマフィンも焼いてみたわ!貴方も食べる?」
「食わん!」
つくづく調子が乱れる。
いや、乱されているのか。こんな頭の悪そうな、いや間違えた。頭の悪い一人の女に、この俺が?そんな馬鹿な。ああ、これ以上は本当に迷惑だ。そして、邪魔なものは片付けてしまえば良い。
「テティス、こいつをさっさと地上へ捨てて来い。それからもう海界に連れ込むな。これ以上神聖な海底神殿を荒らされてはたまらん」
「は・・・、で、ですが海龍様」
「なんだ」
「それは困るわ!そんなことされたら、私家がなくなっちゃう」
「・・・今なんと?」
「家がなくなっちゃう」
「・・・」
それはつまり地上には家がないと、そういうことだろうか。
・・・いや、思い返してみれば、こいつは昼夜問わずいつだってここ海界にいたではないか。地上から来ているわけではないと、何故気付かなかった、カノンよ!!いや、今最も重要な問題はそんなことではない。兎に角この馬鹿を海界から追い出すことが先決だ。一般人がこの場所にいられるだけの理由など何もないのだから。しかも海底神殿に住んでいるだと?あの寝起きの神が知ったらなんというか・・・。
「海界ってちょっと不便だけど、住めば都ってやつ?」
「そうか、よくわかった。もう満足だろう。今すぐ帰れ。テティス!」
「で、ですから海龍様、なまえさまの家はこちらですので」
「何をお前まで感化されているんだ!!」
怒鳴りつければ、身を小さくした人魚姫の前になまえが眉を下げて出てきた。
「なんだ」
「あのね、私の家は、誰が何と言おうとここなの。だから地上に居場所はないし、そのためにテティスを怒らないであげて?」
「ただの人間が海底神殿になど住めるものか。そもそもポセイドン様がお許しになるはずが」
「海龍様、なまえ様はポセイドン様に許可を頂いてこちらにお住まいです!」
「・・・・なんだと?」
人魚姫が焦ったように言ったその言葉に、なまえはへらりと笑った。
人魚姫が、俺に嘘をつくとは思えないが、ポセイドンが?
あの海皇が一般人、それもただの人間を海界に住まわせるだと?一体あの神は何を考えているのか。寝ぼけすぎて頭のねじが異次元にでも飛ばされたのか。
「・・・だめ?」
眉を下げて首を傾げたなまえに言葉に詰まる。
疑わしいことに違いはないのだが、もしかりにそれが事実だとしたら、こいつを放り出せばなまえは路頭に迷うことになる。こんな女がどうなろうと俺の知ったところではないのだが、ポセイドンの許可を身分上はやつの臣下にあたる俺が勝手に撥ねつけるわけにもいかない。
「・・・・・」
「・・・・?」
「・・・・・・・勝手に、しろ」
「わあ、ありがとう!!」
俺の一言で笑顔になったなまえはテティスに抱きつきながら礼を叫んだ。
「・・・・」
いまいち納得がいかないのだが、まあ良いだろう。
俺の野望の邪魔をするというのならば、なまえ如きいつでも片付けられるし放り出せる。何も問題はないだろう。
とりあえず、すこしばかり泳がせてやるだけだと、俺は黙ってなまえに背を向けた。
魔女は海底で生を歌う(ありがとう、なんて)
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