Episode 12
結局私は臆病だったのだと思う。
人間としての記憶が、遥か悠久の時を生きたセイレーンのものにかき消されるのが怖くて、
今まで感じたことのなかった小宇宙を中に感じて、
だんだんと、自分が別の存在になっていくような気がして、
そういったものがただただ、怖かっただけだったのだ。
時がたてばたつほどに自覚していくニンフとしての自分。
まるで、人間ではない気がして。(本当にそうなのだけれど、私は人間でいたかった)
カノンの隣にいる権利なんてないんだと、いつだって本当は逃げ出したかった。
だから、彼の大切な人という存在を知ったのは、逃げ出す理由を手に入れたという、それだけのこと。
でも、そんなのはテティスたちに対する冒涜だった。人間だから、とか、ニンフだとか、そんなものは関係なかったのだ。
大切なものは、そんなものじゃなかった。
私には、セイレーンとか、人間とか、ニンフとか、そんなくくりは必要なかった。
私はただ私である。
カノンは、それを認めてくれた。
私は、なまえ。
ねえ、それで良いのでしょう?
「お前が好きだ」「愛していたわ、私はね」
ぽつりと呟いたその言葉に返事が返ってくることはなかった。
小さく溜め息をつく。
聖戦はもう始まってしまっただろうか。
カノンは聖域に行くことができただろうか。
女神のために、戦って傷ついているのだろうか。
海の底から空を見上げる。
海面に映る満月がきらきらゆらりと揺れていた。
「綺麗」
返事は帰ってこない。そんなことはわかっている。
彼はもうここにはいない。テティスも、アイザックも、イオも、皆、もう海界にはいない。私一人。静かな誰もいないこの忘れられた場所に一人きり。
「…、」
冥王は強い。
それは神話の時代から変わらない。今夜はきっとたくさんの人が死の翼に抱かれて眠るに違いない。彼も、きっと、
行かないでといいたかった。死なないでと頼みたかった。私を一人にしないでと、
波と潮の流れを聞きながら目を閉じる。
小さく歌を歌ってみた。
魚や海豚が傍に寄ってきてくれる。海豚の頭を撫でてやりながら歌を続ける。
歌は凶器で、同時に私の支えだった。
私はいつだって、この歌が大切な人に届いたら良いと願っていたんだ。誰かを、殺したかったわけじゃない。コレー様、カノン、私の大切な人たちに、私はここにいるよ、って
私はもうずっと誰かを待って生きてきた。また、その生活に戻る、だけ。つらくなんてない。大丈夫、私はきっと頑張れるよ、カノン。
だから、その代わり
「ここで待っているから」
早く迎えに、
…帰ってきてよ、
薄く差し込んだ月明かりが、妙に冴え冴えとしていた。
(頬を流れるそれに気付かぬふりをして目を閉じる)
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