Episode 11
「…ここにいると思ったぞ」
というより、ここ以外には思いつかなかったのだが。本当に俺は、知っているようでこいつのことを何も知らなかったと改めて思い知らされる。
「お前を探していた」
はあ、と溜め息をつきながらそう言えばこちらに背を向けていたなまえがびくりと震えて振り返った。大きな黒い目が丸く開かれて、その顔がまるで信じられないものを見るかのようで苦笑した。ああ、くそ、そんな顔をするな。俺だって自分が信じられん。お前みたいな女を自分で探しに来たなんて。
そっとあたりを見渡した。乾燥した大地から土埃がたつ。
馬鹿女がいたのは始めて出会った場所、だった。
「…懐かしいな」
もう二度と来ると思っていなかった場所。昼時のシエスタの時間だからだろうか、市場にはまったく人が見えないし、店もたたまれている。そんな誰もいない閑散とした場所で、なまえは一人きりで立っていた。黒い目が揺れて、小さく唇が開く。
「…カノン、どうしてここに」
「帰ってこい、馬鹿女」
「いや」
素晴らしい速さの即答とともにすっと身を引いたなまえと俺の距離はせいぜい数メートル。無理やり引きずりかえることもできるが、そんなことに何の意味がある?なまえはまだ誤解しているようだし、まずはそれを解くのが先決かと溜め息をつきながら頭をかいた。
それを見ていたなまえが薄く笑みを浮かべて、また一歩後ろに下がる。
「カノン」
「なんだ」
「私ね、ずっとカノンが好きだった」
「…知っている」
直接聞くのは初めてだが、と告げれば彼女は今にも泣き出しそうな顔で笑った。
「言ったら、今までの関係が、全部壊れちゃうかもしれないから」
「だが、今お前は言った」
「うん、もう終わりにしたいよ」
「何故?」
随分勝手な話ではないか。散々帰れと言っても決して帰らず、いつだって傍にいたくせに、いざという時にさっさと離れようとする。こんな無責任な話があってたまるかと、馬鹿女をまっすぐに見ればなまえは表情を僅かに歪ませて、それでも笑って見せた。
「だって、貴方は私を見てくれないんでしょう」
「…何故そう決めつける」
「大切な人がいるのに、どうして私がそこに踏み込めるの?」
やっぱりそのことだった。
どうして説明しようか。いや、遠回しな言葉なんて必要ない。この馬鹿女が俺の名前を呼ぶように、はっきりと正直に言えば良いだけの話だ。
目があった瞬間、なまえが目を反らした。それにまた溜め息をつきたくなったが、とりあえずそれは後回しだ。
「…なまえ、落ち着いてきけ。それは、俺の兄のことだ。お前が思っているような甘ったるいもんじゃない」
「え」
「だから、帰ってこい」
そう言って手を差し出す。なまえの目が揺れて、そしてすぐに俺を見た。
「無理よ、」
「無理じゃない」
「無理なの、」
「なまえ、帰ってこい」
少しだけ語調を強くすれば、またなまえの体が震えて、見開かれた目が俺を見る。
差し出されたままの手をそうしてしばらく見た後に、ゆるりと手が伸びたがあいつはすぐに手をひっこめた。
そして首をゆるゆると振って、深い溜め息をつく。
「だめなのよ、カノン。ごめんなさい、けれどお願いよ、海界に帰って、私のことはもう忘れて」
「何故だ」
「だって、私のことを知ったらカノンはきっともう傍には居てくれない!ううん、私ももう貴方の傍にいられないもの!」
「何故そう言い切れる?」
「だって、…だって私は…」
「なまえ、俺がお前を受け入れてやる。だから、」
「嘘よ!無理に決まっている!!」
初めて笑み以外の表情と感情をあらわにしたなまえはすぐにでも泣き出しそうな顔でそう叫んだ。
驚いて黙り込んだ俺を見て、ふと薄い笑みを浮かべたあいつが目を閉じた。
瞬間感じる強く巨大な小宇宙。人間とも神ともつかないそれが馬鹿女から発されているものと気付いた時、それが理解できずに思考が止まる。
「この小宇宙は…」
「私はね、カノン、セイレーンよ。神話の時代に生きたニンフだった。貴方が助けてくれたあのときは人間だったけれど、今は、もう……!!」
意味がわからない。なまえが神話に出てくるニンフ?馬鹿を言うな、そんなものが現代に存在するはずがない。そもそもセイレーンは神話の時代に死んでいるはず。
「ええ、死んだわ。死んだはずよ、でも私は今生きている。じゃあ私はセイレーン?そうね、この体はセイレーンとしてのものよ。老いることも死ぬこともない。だからポセイドン様は私を海界におくことをお許しになったのね。たぶん、もう私は人間ではないから。ねえ、私はセイレーンなのよ、カノン」
泣き出しそうな顔のままなまえはそう言った。黙り込んだ俺を見て、さらに悲しそうな顔をして口を開く。
「でも、それならどうしてなまえの記憶がかすかに残っているの?貴方に恩を感じ、愛おしいと思うの?私は誰?ねえ、カノン、貴方を愛している私は誰なの」
「………なまえ」
「セイレーン?なまえ?知らない、分からない。私は自分が誰なのか分からない。でも人間ではないことは確かよ。歳をとらない。老いない。死なない。カノン、貴方とは生きている次元も違う。傍にいたいわ。でも貴方はいつか私を置いていく。私はそれがたまらなく怖いの、今すぐにでも逃げ出したいわ!ねえ、そんな自分勝手な私がどうして貴方の傍にいられると言うの?」
人間ですらないのだし、となまえは笑いながら呟いた。
黒い目が、俺を映し出す。
「私はもう、貴方とは違う」
「当たり前だ、馬鹿」
「……!」
はっきりとそう言えば、なまえは眉をよせて、瞳に涙をためて俯いた。
悪い癖だ、なあなまえ。人の話を最後まで聞かずに誤解する、お前の悪い癖だ。
「なまえ」
「…まだ何かあるの」
もういいでしょ、となまえは俯いたまま呟いた。暗にもう聞きたくない。傷付きたくない。早く帰ってくれと意味をこめて。だからお前は馬鹿な女なんだ。人の話は最後まで聞け。
「あのな…、俺と同じ人間がいてたまるか。考えても見ろ、双子の兄だって俺とは違う。あいつは俺じゃない。それなら赤の他人のお前が俺と違うのは当たり前のことだろう。俺はなにか間違えているか」
なまえが顔をあげた。少しだけ期待する目と、まだ理解できないという目。ああ、くそ、お前はやっぱり大馬鹿だ。皆まで言わせずに理解してくれ。畜生、こんな女に俺が惹かれたなんて嘘だろう、
「…良いか、一度しか言わんぞ。耳をかっぽじってよく聞け」
「……?」
「…俺はお前が好きだ。人間とかセイレーンだとか、そんなことは関係ない。なまえ、お前が好きなんだ」
なまえの目が見開かれる。間抜け顔だな、本当に。(ああでも嫌じゃない、なんて)
なまえはしばらく狼狽したかのようにおろおろとして、俺を見て顔を真っ赤にしたり宙に視線をさ迷わせたりして、散々躊躇ったあと、ぽつりと呟いた。
「ほんとうに…?」
「嘘など言ってどうする?俺は何も得しない」
「私で、いいの?」
「お前が良いんだ、それくらい分かれ、馬鹿女が」
溜め息と一緒にそう吐き出した瞬間、なまえの目からぶわりと涙が溢れた。鼻の頭は真っ赤だ。こいつ、まさか鼻水など垂らしたりしないだろうなと思った瞬間なまえが飛び掛かってきた。
「カノン!!」
「うわ、」
あまりに突然の衝撃をなんとか抱き留めた。なまえはぎゅうぎゅうと首に抱き着いてくる。若干絞まっているのは今日くらいは黙っておいてやろう。
「好き!大好き!!」
「黙れ、馬鹿女」
「ひどい!」
「耳元で叫ぶな」
冷たいわ、カノン
勝手に逃げ出して探す手間をかけさせたくせに文句言うな
そう冷たく言い放てば、馬鹿女は涙を目尻にためながらもくすくすと笑って言った。楽しそうな顔が腹立つと同時に、どこか暖かな気持ちになる。ああくそ、情けない。
太陽の位置が少し代わったらしい。先程まで日陰だったこの場所はいつのまにか日なたに変わっていて少し暑い。
ぎゅうぎゅうと抱き着いてくるこいつは暑くないのだろうか。
うへうへ笑いながら好きだと言い続けるところを見る限り、まったく気にならないらしい。ああ畜生暑い。
「大好き」
「…俺も、好きだ」
そんな狂った台詞を吐いたのは多分、暑さで頭をやられたからだ。
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