Episode 9
太陽が地平線の先に落ちて数時間がたった。地上ではそろそろ月女神が丁度地上の真上に君臨する時間帯だろうか。海底神殿は淡い光に照らされ、青に包まれていた。ごぽりと泡沫が散る音に耳を澄ませた時、ふと良く知ったメロディーが聞こえた気がして当たりを見渡す。
今のは一体、
気のせい、だったのだろうか。静まり返った神殿。
もう一度、耳を澄ませてみた。波の音、潮の流れ、泡沫、それらの先に
「――――」
やはり歌が聞こえた。
高く澄んだ人を惑わす力を持つ歌。
私たちはこの歌を知っている。
それは、はるか昔神話の時代にこの世界に響いた歌声。
人に恐れられ、私たち海に生きるありとあらゆる生き物に愛されたこの歌の主は
「―――・・・なまえ様!!」
どうやらぼうっとしていたらしい。
ふとはっきりした意識の中歌声の元へかけていく。彼女は自分の歌の恐ろしさを知っている。いくら私たちに愛された歌とは言え、それは人に対してのものではないということをよく理解されているのだ。その彼女が歌っている。
いや、それ自体は決しておかしなことではない。彼女は元来歌を愛していた。だから海界に来てからも時折地上の誰もいない場所へでて一人きりで歌っていることが多々あった。たまに、通りかかった船乗りを神話の時代のように溺れさせて慌てて助けることはあった、が…、ともかくおかしいのは彼女が非常に大切にしている海龍様がいるこの場所で本当に小さな声とはいえ、歌っていることだ。なにか、何かあったに違いない。
天井ではゆらりゆらりと水面が月明かりに照らされている。
その下を出来る限りの早さで駆ける。
早く、早く彼女の所に
屈折した青い光が、ぼんやりと薄暗い神殿の廃墟を照らした。
小さくか細い歌声を頼りに辿り着いたのはすでに放棄された神殿だった。月の光も遮断された闇に包まれているその場所の最奥に足を踏み入れる。
「…なまえ様?」
「…テティス、」
彼女は、なまえ様は暗闇の中に座りこんでいた。私に気がついた瞬間、歌はぴたりとやんで、彼女がこちらを見る。暗いせいでぼんやりとしか見えない彼女の眼もとからきらりとしたものが零れおちた。これは、
「泣いておられるのですか?何故…」
「テティス…!」
ゆっくりと歩み寄れば、彼女は飛びかかるように私に抱きついてきた。いつも快活な彼女が一人震えるように泣いている。その理由が思い浮かばずに私は困惑するしかなかった。
「なにか、あったのですか?なまえ様」
「…やっぱり…、やっぱり人間に恋なんてしなければ良かった」
「…海龍様のことですか?」
「ここがね、痛いの。ねえ、どうして、テティス」
私の問いには答えず、胸を押さえながら涙を流すなまえ様を宥める。
恐らく海龍様絡みなのだろうが、あの二人は最近日ごとに親しくなっていた。それなのになぜ彼女はこんなにも泣いているのかと私のなかで疑問は積るばかり。
「コレー様が冥王に連れて行かれるのを私はお守りできなかった!私は、それをずっと後悔していたわ!!お優しいコレー様を連れ去った乱暴な男なんて大嫌いだった…!憎かった!!」
「なまえ様、落ちついてください…!」
「恋なんて、してやるものかと思っていた!恋も愛も憎かった!汚らわしいものだと思っていたのよ!そうしたら、今度は愛の女神アフロディーテ様が私に罰を下したわ!歌で人を惑わし殺す海の魔女セイレーンに!歌は私にとって凶器になってしまったの、テティス、でも本当は私、ずっと誰かに助けて欲しかったのよ、ねえ!いつか、私の歌声がコレー様に届いて、帰ってきてくれるか持って、期待していたの、歌は、凶器であったけれど、どうじに私の支えだったの、」
「なまえ様」
「テティス、テティス、ここが痛いのよ」
なまえ様の目からは涙が留まることなくぽたりぽたりと落ちる。言っていることも支離滅裂だ。落ちついて、泣かないで、泣かないでなまえ様。貴女に泣かれると私はどうしたらいいのか分からないのです。貴女の歌はいつも私や海に生きるありとあらゆる者たちを癒してくれた。でも、私たちは貴女を癒す術を知らないのです。だから、どうか泣かないで。
「なまえ様、どうか落ちついて、ゆっくりとお話し下さい」
その言葉に、彼女は僅かに目を揺らして私を見た。そして、小さくごめんなさいと呟いた後俯いてしまった。けれど、少しだけ、落ちついたらしい。先程まで早い口調だったが、今度はゆっくりと話し始めた。
「愛って何、…恋って?私には理解できなかった。ただただ気持ちの悪い性欲をみたすためだけの感情だと思っていた。絶対にそんなものしてやるかと呪ったまま、私は死んだわ」
はあ、と一つ息をついた彼女は膝を抱えてしまった。
「全て忘れて日本で人間として生まれて過ごして、記憶は新しいものになったけれど…、でも小宇宙も思想も神話の時代から変わっていなくて、私は一切恋などしないで生きてきた。それなのに私は彼に出会った。出会ってしまったのよ、テティス」
「海龍様、のことですか?」
「助けてくれたのよ、私のこと。ずっとずっとお礼が言いたかった」
ざあ、と遠くで波の音が聞こえたが、彼女の声がそれを消した。
「難破して、海界で気がついた時、神話の時代の事も、コレー様のことも、セイレーンのことも、全て思い出したわ。人間としての記憶は、希薄になった」
ふふ、と力なさげに笑ったなまえ様はどこか遠い目をしながら、人間としてのなまえは多分もう死んでいるのねとまた笑った。海龍様は生きるとは意志を持って行動することだと言ったらしい。なら、なまえ様は?
「時々ね、セイレーンと、希薄になったはずのなまえ、二つの意識がごちゃまぜになって訳が分からなくなるのよ、テティス。でも、それなのに家族のことも友達のことも、もう何も思い出せないの。神話の時代の記憶が、強すぎて、私は」
この意思は私のものなのかセイレーンのものなのかさえ分からないのだと彼女は深くため息をついた。
「心臓は動いているわ。でも、私は老いることがなくなった。ねえ、これってどういうこと?この体は人間のものではないの?」
「なまえ様、」
自身が生きているのか死んでいるのかも分からないらしい彼女は、頭を左右に振って深く息を吐いた。私は誰なんだろうね、そう寂しげに呟いた後、彼女は瞳に涙をためたまま微笑みを浮かばせてみせた。彼女がとても大切にしている人について話す時の表情。予想通り、彼女が次に口に出したのはあの方のことだった。
「それでも、彼のことは、忘れられなかった」
薄く笑みを浮かべた彼女は少しだけ呆れたようにそう言った。それは自身に対しての呆れだろうか。憎んでいたはずの男を愛してしまったという。でも、私はそれをおかしなことだと思わない。私だって同じようなものだ。人間の捨てた糸に殺されかけて、人間…ジュリアン様に救われた。だから私は彼を敬愛している。だから、呆れたりしなくていいんです、なまえ様。それはきっと、心を持った生き物にとっては当然のこと。だから元気を出して、
「…ここで、出会った時は運命だと思った。ただただお礼が言いたかった。そして、一緒に過ごすうちに、私は、彼を」
おかしなことね、
なまえ様はそう呟くと、少しだけ沈黙をした。しばらくそうした後に、彼女は吐き出すように呟く。
「でもね、テティス。彼にはもう大切な人がいたのよ」
「そ、そんな話聞いたこと」
「彼の口から聞いたわ。私は、結局何をしても報われないのね、アフロディーテ様の呪いが、まだ私を、」
こんなにも苦しいものなのなら、やはり恋や愛など知らないままで良かった。ただ傍にいれるだけで幸せだったのに、だんだんと我儘になっていく自分を知らずに済んだ。傷つかないで済んだ。テティス、ここが苦しいのよ、テティス、
そう言って彼女は胸を押さえる。涙もとうとう堰を切ったようにばたばたと流れ出してしまった。
「…悲しまないで、なまえ様。人はセイレーンの歌を怖れたけれど、私たちはそうじゃなかった。貴女の歌は美しかった。いつだって私たちを癒してくれた」
私は神話の時代を知らないけれど、私たちの間では常にその歌が愛されてきた。海に生きるすべての生き物は貴女の歌を常に求めていたのです。ずっとその歌と、貴女のことは私たちの間に語り継がれてきた。貴女がまた海界にやってきて、再び歌ってくれるようになってから、その愛はさらに深まった。優しい貴女の歌は私たちを何時だって癒し、励まし、安らぎをくれた。
「私たちは、貴女が大好きでした」
彼女は泣きながら膝を抱えてしまった。ああ、彼女はこんなにも小さい人だっただろうか。いつだって笑顔で快活で、そんな彼女の弱さを私は想像したこともなかった。(けれど、もしかしたら彼女はずっと、)
目の前で敬愛する人が泣いているのに上手い励まし方を知らない自分がこんなにも憎く感じたことがあっただろうか、
「悲しまないで、なまえ様」
「テティス、…テティス…!」
ぎゅう、と小さな彼女を抱きしめて私はいつも彼女が歌ってくれる歌を歌ってみた。彼女のように上手には歌えなかったけれど、少しでも私たちが貰った物を返せたら良いと、そう願って
雲が月を隠したらしい。
淡い色に包まれていた海界を夜の帳が包みきった
--------------
セイレーンに対する資料は『オデュッセイア』を利用しています。オリジナルも入っています。
[back]