彼女は美しい女神だった。
いつだって穏やかに笑みを浮かべて私の名前を呼んでは、一層笑みを深く顔に刻み込んでいた。
長い髪が風に揺られる。この神殿の奥で二人、まどろむのが好きだった。何よりも大切な時間だった。

そんな日々の終わりは、突然訪れた。

「ヒュプノス、地上に出たいの」
「今は駄目だ。聖戦の最中に地上になど行ったらどうなるか」
「大丈夫よ!危ない事はしないから」
「しかし、」
「もうすぐ春でしょう?きっと気持ちが良いと思うの。だから」

お願いだと笑った彼女を、断ることなど私にはできなかった。
何故行かせたのだろうと、今でも不思議に思う。あの時強くひきとめていれば、今でも彼女は私の傍にいたのではないか?


「行ってきます、ヒュプノス」


そう言って嬉しそうにニンフをひきつれて地上に出た彼女が戻ってくることはなかった。





ぐったりとして動かない彼女を見てすぐに私のせいだと思った。彼女は戦う力を持っていなかった。自分を防衛する力さえ、

そんな彼女を一人、地上に放り出したのは私だ。彼女が、敵である聖闘士に殺されたのは私のせいだ。
私が、私のせいで、彼女は

眠るように穏やかな表情で、けれどもその顔から血の気を失くしてぐったりとした彼女を抱きしめながら考えた。出会った時の事、愛していた彼女の事、過ごした日々の事、彼女が殺されたという事実、そういったことがぐるりぐるりと脳内で反響して消えて行く。なまえの陶器のように真っ白な頬にぱたりぱたりと水が落ちた。雨が降ってきたらしい。おかしなことがあるものだ。空はこんなにも晴れ渡っているのに雨が降るなど、本当におかしなことがあるものだ。







彼女は再び地上に生まれてきた。
姿かたちはまったく変わっていたが一目見て彼女だと分かった。なまえの浮かべる笑顔は、彼女のものと同じだった。私のせいで人間に殺されてしまった彼女は、今度は人間として生まれてきた。その意味など私には分からなかったが、兎も角今度こそ守らねばならないと強く感じた。
そうして、私は彼女をエリュシオンに、そして私の神殿に閉じ込めた。
今度は絶対に守る。人間などに殺されてたまるものか。なまえの笑顔は私が守らなければならないものなのだ。
そう思っていた。思い込んでいたのかもしれない。


貴方は知らないのよとなまえは泣いた。
自分と、パシテアは違うのだと。
そうだ、彼女となまえは違う。私が同じだと妄信していただけで、良く見れば、まったく別の女なのだ。

魂が同じだからなんだというのだろう。なまえは関係がない。私は彼女の魂に惹かれたのではなく、パシテアの性格や笑顔、そういった物が愛おしくて仕方がなかっただけなのだ。

私は、馬鹿だったのだ。
なまえは何も関係ないではないか。

無理やり楽園に連れ込み閉じ込めた彼女は、妻とはなんの関係もない女性だった。
だとしたら、私が今まで彼女に向けてきた愛とはなんだったのか。パシテアに対するものか、それともなまえに対するものか?今まではどちらも同じだと思っていた。彼女はひとりであると盲信していたから。だがそれが違うと気付いた今、私は自分の感情一つさえ分からなくなってしまった。



「、…」


服を裂かれてタナトスに乱暴されかけて涙を目にためていた小さな小さななまえをそっと抱きしめた。私のせいで、関係のないこの弱い女性を強く傷つけてしまった。潮時だ。もう彼女を地上に返すべきなのかもしれない。守るどころか、私が関わったせいで彼女に怖い思いをさせてしまった。

また、私のせいだ



「すまない」
「ヒュプノス、?」
「すまない、すまない、なまえ、すまなかった」

何度もそう繰り返した。胸の中でなまえが不思議そうに顔を上げて私を見た。
なまえはなまえとして生きてきた。それを、私は自らのエゴで壊してしまった。どう償えばいいのか、

「すまない、なまえ」
「ヒュプノス」
「すまな、」
「謝らないで」

なまえの腕が背中に回った。温もりに包まれたことが信じられなくて、腕の中の彼女の顔をまじまじと見つめた。なまえはそれに困ったように、けれどしっかりと、初めて私に微笑みを向けた。



「………!」





それはとてもとても美しい、パシテアの笑顔と同じもの、だった