扉が開かれた。
いつものようにヒュプノスが入ってくるのだろうと思ったけれど、それは間違いだった。入ってきたのは彼とそっくりな男だったけれど、ヒュプノスではない。髪や目の色が違かったし、何より雰囲気がヒュプノスのほうが柔らかかった。
男が私の前に立った。銀色の目が私を見る。その目に背筋がぞくりと震えて持っていたクッションを強く抱いた。怖い、何故だかわからないけれど、この人は怖かった。






「ヒュプノス」
「…!」
「だと、期待したか?」
「ちが…っ」
「ふん、こんな女の何が良いのだか」

そう言って目を細めた彼が私の抱えていたクッションを取り上げて床に放り投げた。ぽすんと小さな音を立ててぽてぽてと転がって行ったそれは壁にぶつかると倒れて静かになる。それを横目で見送った後、目の前に立った男に視線を戻した。冷たい目、

「な、なに?」

一歩近づかれた。だから一歩下がる。そうしたら彼も一歩近づいてくる。だから私もさらに一歩下がった。エンドレスループ。それの繰り返し。けれど部屋の広さなど知れている。すぐに寝台に足がぶつかって、そのまま下がっていた勢いで倒れ込んだ。ぼすり、と音がなる。やばい、どうしよう、これ以上逃げられないと思った瞬間肩を押さえこまれて上に乗られた。柔らかな銀の髪が頬に触れて擽ったい。

「ヒュプノスに何を言った?」
「し、しらなっ…い、た!」

ぎり、と肩を掴む手に力が入る。
それに小さく声を上げれば、目の前の男は楽しそうに口元を歪めた。嫌だ、この人、怖い、嫌い、嫌、ヒュプノスと同じ顔をしているけれど彼はそんな顔をしない、あの人はいつも優しかった。私をここに閉じ込めていたけれど、それでも彼は優しかった。
この人とは違う、

「お前を愛していると言っていたあいつが、ここ数日ぼんやりと何かを考えているようで俺の話にも耳を貸さん。お前が何かを言ったのだろう」

数日、前

「あ…」

貴方のそれは、愛ではない

私は彼にそういった。

ぼんやりと考えこんでいる?何故?彼が?



私なんかの、言葉に?





「面倒だ、はっきりとさせろ、女」
「…っ」
「ここは神々に愛されたもののみが立ち入ることのできるエリュシオン。そもそもお前のような女神の魂を持っているだけで記憶も大した小宇宙も持たない存在が入れる場所ではないのだ。だから、俺が力を貸してやろう」
「力を…?」
「ヒュプノスを愛してなどいないと言え。そうすれば俺が地上へ返してやる」
「なぜ、?」
「あいつの目を覚まさせる」

さあ言えと、肩を掴む手にまた力が強まった。みしりとなったそれに眉を顰める。このままでは折れてしまうかもしれない。言うのよ、なまえ、貴女は言わなくちゃいけない。だってそうすることによって私は地上に帰れるのよ!あんなにも帰りたかったじゃない!!それが今なら叶うのよ



ヒュプノスを、愛していないと言うだけで。





言えるはずだった。私は彼の事など知らないし、愛しているつもりもない。

それなのに、その言葉が、喉から出てこない。



「いた、ぁ!」
「早く言わないか!!」
「…っ、いや!!」
「なんだと、地上に帰りたくはないのか。この俺が協力してやると言っているのに、」
「…私はっ、彼のこと嫌いだったわ!こんな訳のわからない場所に突然連れてきて、閉じ込めて!でも彼は優しかった!貴方とは違うわ!貴方の言葉を信じるくらいなら、私は彼を信じたい!!」
「言わぬのなら言わせるまでだ!お前如き人間が神を、あいつを謀れると思うな!」

一体いつ誰が謀ろうとしたのかという言葉は出てこなかった。着ていた服が裂かれる音と悲鳴に消えてしまったから

「な、にを!やめて!!」

男の腕を押さえようとしたが、力が強すぎて叶わなかった。それどころか両手を頭の上にまとめ上げられ動きを制された。怖い、


怖い、


何をするの?やめて、
じわりと涙が浮かんだ。じたばたと暴れてみても、上に乗られているせいで何も意味を持たなかった。やめて、離して、誰か助けて

「止めて欲しければ言え!俺は認めない!俺たちは神だ!人間のお前の存在など俺は認めるものか!!」
「タナトス」


低い

低い声だった。聞いたこともないくらい低い声。私の上に乗っていた男が動きを止めた。

「…何をしている?」
「…ヒュプノス、俺は」
「言い訳など聞きたくもない」


身をどかした男の向こうには、色とりどりの花を片手に持ったヒュプノスが見たこともないほど冷たい顔をして立っていた。それに身体が小さくびくりと震えたのを気づかない振りをして寝台の上のシーツを手繰って斬り裂かれた服を隠す。

「……、」
「出ていけ」
「ヒュプノス!!」
「出ていけ!!!」
「…っ!!ああもう良い!お前たちの勝手にすればいい!だが忠告しておくぞ、ヒュプノス!お前は間違っている!お前のそれでは幸せになる事などできない!お前も、この女も!!」
「黙れ!!!」


強いその言葉に、タナトスと呼ばれた男はこれ以上ないほどに顔を顰めて、そうして部屋から出て行った。ヒュプノスは、彼の背中が見えなくなるまで扉を睨みつけていた。

「…、」


呼んだ彼の名前は声にならなかった。
けれど、ヒュプノスは気がついて私を見る。「なまえ、」小さく名前を呼ばれ、金色の、穏やかな目が私を映した瞬間、彼が駆けよってきた。寝台に膝を乗せた彼の暖かな手が頬を包んで顔を覗きこまれた。

「なまえ、タナトスに何をされた?」
「な、なにも」
「本当にか?大丈夫だったか」
「大丈夫よ、」

涙の滲んだ目のふちを、ヒュプノスの指が滑る。暖かな手だった。


「怖い思いをさせた」
「…貴方は悪くないわ」
「私が、ここに連れてきた。お前を、私が」
「ヒュプノス、」


此処に来て、初めて彼がその顔に後悔を浮かばせた。

やめて、止めて頂戴、そんな顔をしないで!
何故そんな顔をするの、
後悔をするくらいだったら、何故私をここに連れて来たの。
何故私に優しくしたの。
何故私を愛していると言ったの。


何故、私にキスをしたの、



「…なまえ?」
「なんでもないわ、そう、なんでもないの…」
「…、」




ああ、なんてことだろうか。



―ヒュプノスを愛していないと言え
そうだ、私は彼の事を愛していなかったはずだ。愛してはいけなかったはず。それなのに、今、私は












彼を愛してしまったのよ、