なんだか、ひどく長い時間眠っていた、そんな気がした。
ぱちりと目を開けると、光に目がくらんで瞼を閉じる。
頭が重い。
関節も、痛い。


沙織が、私の名前を呼んでいた気がする。
あれは夢だったのだろうか。

もう一度目を開けた。
微かな希望を打ち砕く変わらない景観。
私はまだここにいる。

「なまえ」

彼も、まだここにいた。

「あ…、」
「何か飲むか、それとも何か食べるか」
「いいえ。それより、今日は何日かしら、私は、どれだけ眠っていたの」

ひどく長い時間を眠っていた気がするのよと言えば、ヒュプノスはしばらく黙ったまま私を見ていたが結局身を翻した。答えてくれる気はないらしい。小さく溜め息をついて、寝台に転がる。ちらりと、ヒュプノスを見た。こちらに背を向けて花瓶に花をさしている、ようだ。今度は扉を見た。大きい扉。いつもは外からカギがかかっている。けれど、今はどうだろう。鍵をあけるヒュプノスは部屋の中にいるから扉は開いているだろうし、彼は今、私に背を向けている。



「―――、」



今しかないと思った。
立ちあがり、駆けだす。目が覚めてすぐに動かす身体は思いのほか重かったけれど、そんなことを気にしている場合ではなかった。重い鉄の扉を引く



「!」
開いた!

「!、なまえ!!」

物音に気がついたヒュプノスがこちらを見る。金色の瞳と目があった。オレンジ色の花が床に落ちて、それと同時に名前を呼ばれる。それが耳に届いた瞬間すぐに私は駆けだす。見たこともない、広い神殿の奥へと駆ける。
もつれそうになる足を必死に動かして、外へ、外へ

「!」


初めてこの場所に来た時私は眠っていたから道を知らない。ただがむしゃらに走る。

ふと、花の香りを感じた。
そちらに方向を変えて駆ける。暗い神殿の奥に光が見えた。きっと外だ!
そう思った瞬間、迷うことなく一直線に走った。
ここはひどく狭かった。ヒュプノスは、何が目的かは知らないけれど優しかった。けど、それでも私には鳥かごの中で生活することなど、もう我慢できなかったのだ。


「あ、」

神殿の外はだだっ広い花畑が広がっていた。風が頬を撫ぜる。気持ちが良い。久しぶりの外だ。けれど私はどこに行けばいい?どこに逃げる?早くしないと彼が来てしまう、でも私はここがどこだか分からない

「―――っ」



行き先も分からずとにかく走った。今はただ一歩でもあの鳥かごから離れたかった。あそこは息が詰まるような部屋よ、自由も何もない。ただ過ぎる時間を怠慢に過ごすためだけの退屈な部屋。
もうこりごりだ。私は帰る。母さんや父さん、沙織、それから友達のところに!ヒュプノスは欲しいものはなんでも与えるといった。
けれど違うの。彼は何も分かっていなかった!!
私が欲しかったのは、服でもアクセサリーでも美味しいご飯でも綺麗な音楽でもない!私は唯学校に行って、皆とご飯を食べて、友達と話をして、勉強して、寝坊したりゲームをしたり、そういった普通の生活が



「きゃ、あ!」

ぐい、と乱暴に腕をひかれて花畑に倒れ込んだ。視界を占めていた花畑は青空と、見慣れた金色に変わってしまった。ああ、駄目だった

頭の両脇にヒュプノスの手が落ちてきた。完全に逃げ場がなくなってしまった。
逆光のせいで彼の表情は何も見えなかったけれど、ぽつりと呟かれた言葉は呆れに満ちていたせいか、余計に私を苛立たせる。

「馬鹿な真似をするな」
「馬鹿な真似っ!?それは貴方のほうでしょ、もうこりごりよ!私を狭い部屋に、貴方のエゴで閉じ込めないで!」

走ったせいで、息が上がっている。ヒュプノスは、澄ました顔をしていたけれど、私は普通に喋るのも難しかった。けれど無性に頭に来て一気にそう捲し立てたら、すぐに咳き込んだ。喉が渇いてひゅうと音がなる。

「大丈夫か」
「貴方のっ、けほっ…、せいよ!」
「逃げたお前が悪い」

どうせ逃げられないのに、と呟いたヒュプノスが辺りを見渡した。地平線の果てまで広がる花畑。

「お前は前にも私の元から逃げ出した。大丈夫だと笑って、少し地上の空気を吸いに行くだけだと、そう言って、お前は殺された。人間に殺されてしまった」
「な、なんの話…?」
「なまえ、帰るぞ」
「いや、もういやよ」
「なまえ」
「何故私を閉じ込めるの!私は貴方のことなんて知らない!なんど愛していると言われても、私には受け入れることなどできないわ」
「パシテア」
「止めて!私をその名前で呼ばないで!!私はなまえよ、そんな人知らない…!」

じわりと滲んだ視界を放ってそう言い放った。ヒュプノスが滲んだ世界の向こうで息を飲んだ気がする。けれど構ってなどいられなかった。



「貴方のそれは愛ではないわ」


私にそれを押しつけないで。
私にそれを求めないで。
貴方のそれは私に対するものじゃない。
私を通して見える誰かのものよ。
そんなもので私を縛らないで。出して、ここから出して、もう我慢などできない

「私は、…私はそんなものを愛とは呼ば、!」


唇を強く押し付けられて、それ以上の言葉は、私と、ヒュプノスの口の中に消えて行った





何故か不快感はなかった。
ただひどく、苦しかったから私は涙を零した。リップ音にたまらなく耳を閉じたくなったのは、これが初めてだったかもしれない。
とにかくもう、わけがわからなかった。