「なまえ」
「、…」
いつものように、彼は私の名前を呟いて神殿の一角に入ってきた。
金色の目が私を見る前に目をそらして俯く。視線を感じたが、気づかなかったふりをしてモザイクの柄の床を眺め続けた。
「新しい花を持ってきた」
「それは…ありがとう。ドライフラワーにしても?」
「好きにすれば良い」
目の前に花が差し出されようやく顔あげた。大きな手が頬に伸びてきたが、抵抗するだけの気力も起きずに受け入れた。
「顔色が悪い」
「…そりゃあね」
監禁と同じようなこの状態でどうやって元気をだせと言うのか。食欲もわかないし、そうすると今度は何もかもが面倒になってくる。そして今度は食事も面倒になるという悪循環だ。
しかもただでさえ、通常の生活と掛け離れた監禁状態という異常な生活。顔色の一つも悪くならないほうがおかしい。こんなのに耐えられるのは特殊部隊員とかサイボーグに違いないわ。
ちらりと部屋を見渡した。
数週間前、目が覚めたらもうここにいた。
なんの娯楽もない。部屋の隅で、ちょこんと置いてある花瓶。それ以外は殺風景なものだ。着る物や、アクセサリーは彼がたくさん持ってきてくれるから困ることはないが、正直そんなにたくさんの服があっても箪笥のこやしになるだけだった。私はここから出られない。着飾ったところでなんの役にたつというのか。
寝台に腰掛けたまま溜め息をついた。頬に触れていた手が離れる。
「…ねぇ」
「……」
彼は私が次に何を言うか分かっている。だから何も聞かない。ただ金色の目を私にむけるだけ。
前までの私ならその強い視線にそれ以上何も言えなかった。けれどもう限界だ。ここに閉じ込められてもう何日がたつ?一週間?二週間?もう時間の感覚もよく分からなくなってきてしまったんだ。こんな訳のわからない場所、早く出たい。
「家に帰りたいわ」
ぽつりと、けれどはっきりとその言葉は彼の耳に届いたと思う。
それまで無表情だったのに、眉根が思い切り寄ったからそれは確かなはずだ。
「帰りたいの、もうここから出して」
「…アテナが、お前を探している」
「…アテナ?」
神話の女神様の名前、だったろうか。
ああ、確かそうだ。知恵の女神様だったっけ、と考えていた私の手を引いて立ち上がらせたヒュプノスの目が私の顔を覗きこんで、言った。
「城戸沙織」
「…っ!?沙織が!?」
久しぶりにその名前を聞いた。
なんだかとても懐かしい名前を聞いた気がして口元が緩んだ。ヒュプノスはそんな私を見ると、小さく溜め息をつく。
けれどそんなことはどうでも良かった。沙織が私を探している!それなら、きっとすぐに見つけてもらえるはずだ。彼女はそれだけの力も持っているのだから。
「そんなに嬉しいか」
「当たり前よ!」
「何故?」
「何故ですって?」
この人は正気か?いや、正気のはずがない。正気の人間は見ず知らずの人間をこんな訳のわからない場所に連れてきて閉じ込めたりしない。それも、何週間もずっと。
「私は正気だ。お前こそ、今は少し幻想に抱かれているだけだ」
「なにを言って、っ!」
少し乱暴に手をひかれて寝台に倒れ込んだ。シーツがふわりと舞う。
「なにをっ」
肩を強く押さえこまれて、寝台に沈み込む。
私に馬乗りになったヒュプノスの顔が近付いて、耳元でぴたりと止まった。
「パシテア、思い出せ」
「パシ…?」
それは一体誰の事だと言おうとした私の瞼にヒュプノスの大きな手がそっと添えられた。瞬間訪れる強い眠気。
強制的に訪れたまどろみに反抗しようとしたが、全て無意味に終わった。せっかく、彼女が私を探してくれていると分かったのに!
助けて、沙織
私はここにいるのよ
沙織、
「愛している」
耳元で、そう聞こえた気がした
(たすけて)