「失礼します」 「む、なまえかね」 「やあ、なまえ。調子はどうかな?」 「ええ、元気ですよ、アフロディーテさん」 広い部屋には、珍しく彼の姿が無くて。その代りに、もっと珍しいことにシャカさんが真面目に書類と睨めっこしていた。・・・目を閉じているので、はたして見えているかどうかは私には分からない、けど。 そしてふわりと優しく頭を撫でてくれたアフロディーテさんにサガさんの所在を問えば、給湯室を指差した。 言われたとおりに給湯室を覗けば、サガさんがコーヒーと睨めっこ。ああ、目の下の隈が・・・。なにか、早速不安になってきた。というか、そんなにコーヒーを睨んだところで美味しくなったりはしないぞ。 「・・・あの、サガさん?」 「なまえ。どうかしたか?」 コーヒーを敵だというかのように睨みつけていたサガさんの名前をためらいがちに呼べば、彼はすぐにわたしをみた。そんなにふわりと綺麗に微笑んでも駄目だ。どうしても視線は隈にいく。 「・・・また徹夜ですか」 「いいや、少し眠った」 「もっと寝てください。一日12時間は寝てください」 「それは眠り過ぎではないか?」 「ミロさんが言っていました。ギリシャにはシエスタの習慣があるって!私、ミロさんとカノンさんがしょっちゅうシエスタしているのを見ますけど、サガさんのシエスタは一度も見たことありませんが?」 そう口早に捲し立てれば、サガさんは言葉を詰まらせて目をそらした。 「ということで、寝ましょう」 「・・・そう、だな。・・・ならば、なまえ」 「で、私、明日から一週間、沙織ちゃんと日本に帰りますけど、ちゃんと眠ってくださ・・・、・・・何か言いました?」 ほぼ同時に口を開いたため、サガさんが私の名前を呼んだにも関わらず用件を伝えてしまった。 彼は何を言いかけたのだろうと問い返したが、何故かサガさんは固まったままで。 あれ 私、なにか変なことを言っただろうか? 「サガさん?」 「・・・帰るのか?日本に?・・・一週間も?」 「え、・・・はい」 眉を寄せて、なんとも言えない表情を作ったサガさんを、一体何事だと見つめ返した瞬間、大きな掌で頭を撫でられて目を閉じる。サガさんに頭を撫でられるのは、好きだ。子供扱いされている気もするが、大きなその手で撫でられると安心、する。 「・・・サガ、さん?」 す、と手が離れ、私が彼を見つめ直した時には、すでに苦虫をかみつぶしたような表情は消え失せて、いつもの穏やかに微笑む彼がいた。 「私は仕事で共にはいけないが・・・、風邪をひかないように気をつけなさい」 「サガさん、お母さんみたいです」 「・・・それには、なんと返せばいいのか」 「ふふ、優しくて暖かくて大好きです」 「・・・!!・・・、私も・・・好きだ、なまえ。・・・出発はいつになるんだ?」 「明日の早朝です」 「・・・随分と、急だな」 「・・・私も思いました」 苦笑する彼に、また夜にでも会いに来ると告げれば微笑んでくれた。 ああ、そうだ。あとでシオンさんにもちゃんと伝えに行かないと。それからシュラさんに頼まれていた本を届けに行かなきゃ。なんだ、やることがたくさんあるじゃないか。 「じゃあ、サガさん。またあとで」 「・・・ああ、また」 微笑んだ彼に背を向けて、私は自室へ走るのだった。 穏やかさに隠れて気付かない追想曲 コツ、という音に振り向けば給湯室の入口で壁を軽く叩いたアフロディーテが目に入る。 彼は相変わらず美しいその顔を、面白そうに歪めて私にたいして口を開いた。 「・・・まったく、見ていてこっちがいじらしくなるよ」 くすくすと笑ったアフロディーテになんとも居心地が悪くなる。 「君は一体どこの少女漫画のヒロインだい、サガ?」 「・・・アフロディーテ」 なまえの去って行った方向を眺めながらアフロディーテは面白くて仕方がないとばかりに肩を揺らす。 「正直に言えば良いのに」 「・・・私は臆病者だ」 「まったくだ。なまえに眠れと言われた時に、一緒に眠ろうと、言いたかったならば言ってしまえばよかったのに」 「・・・・・・・いや、やはり、それは潔白な男女の付き合いというものにはあってはならない過ちが起こる可能性が、」 「もうそんなことを気にする仲でもないだろうに。それに、行って欲しくないのなら、正直に言えば、なまえは聖域に留まってくれたと私は思うけどね」 肩をすくめて笑ったアフロディーテの言葉に、私は首を傾げる。 私の一言は、なまえにとってそんなにも大きなものだろうか?行くな、とただ一言。それだけで、故郷への旅行も中止するほどに?もし、仮にそうだとするならば、私は、 「・・・いや、駄目だ」 「・・・・何故?」 「あんなにも日本に行くことを嬉しそうに笑っていたのだ。行くな、などと言って笑顔を曇らせたりでもしたら私は・・・!」 耐えられない、と言えばアフロディーテは呆れたように溜め息をついた。 「貴方は本当にどうしようもない人だ。我慢する必要なんてどこにもないじゃないか。行くなだけじゃない。そこに寂しいでもつけておけば、なまえは、・・・いや、なんでもない。これは私が口をだす問題じゃないな。・・・さて、私はそろそろ帰るよ。今日はデスマスクとシュラと飲みに行くからね」 「ああ、構わん」 そういえば、私もこんなところで話している場合ではない。 シオン様に提出する書類が、ミロの馬鹿が滞納したせいで期限がギリギリだ。早く片付けなければと、コーヒーを片手に給湯室の入口の壁に寄りかかるアフロディーテの脇を通る。 「まったく。なまえがあんなにも楽しそうに笑うのは貴方と話しているからだというのに、そんなことにも気付かないなんて」 「なにか言ったか、アフロディーテ」 「いいや、なにも?」 「・・・そうか?」 とうとう空耳まで聞こえだしたのか。 なにか、自分に都合のいい幻聴が聞こえた気がした。が、どうやら気のせいだったらしい。 だが、遠くで、書類の所在を叫ぶシオン様の声を聞き、そんなことも忘れて、慌てて真っ黒なコーヒーを片手に執務室に戻るのだった。 「まったく、あの鈍感奥手二人組の分かりにくすぎるアピールを、私は後何度見なければいけないんだろうね」 アフロディーテが綺麗な形の唇を三日月型にして言ったその言葉を私は知らない。 |