お互いのこと
 例えば友達と喧嘩した時。例えば嫌味な先輩にムカつくことを言われた時。例えば仕事でミスした時。私と同い年の普通の女の子ならどうやってそのストレスを発散していたのだろう。友達に愚痴を聞いてもらう?彼氏に抱き締めてもらう?私はどちらもしたことがない。友達はいるし親友と言えるほど仲のいい女の子もいる。でも一番重要なこと、そう、恋愛。それを誰にも言えなかったから、私は自分の気持ちを自分の中で抑え込むのが癖になっていた。自分を抑圧することで上手く行くならそれでいいと思っていたのだ。だから、こんな時どうしたらいいか分からない。

「お前の行きたいところに行く」
「えっ」
「どこに行きたい」

 綾人くんが休みの日。私は喜んで有休を取った。元々取らなさ過ぎて会社から怒られていたからちょうどよかった。今まで綾人くんと一緒に過ごすのは大抵、いや、いつも家だったし余計なトラブルに巻き込まれるくらいならそれでいいと思っていた。でも、綾人くんが私の意志を聞いてきた。それはとても嬉しいことのはずなのに、私は何だか怖くなって変に汗をかいてしまった。

「い、いきなり言われても、思い浮かばない、かな……」
「……」

 綾人くんは何も言わず私から目を逸らした。そのクールな瞳が怖くて、不安で。俯いて唇を噛んだ。私が上手に甘えられる女の子だったら。綾人くんは私を面倒な女だと思っただろうか。

「真琴」
「っ、」
「ドライブか、買い物。どっちがいい」

 でも綾人くんは特に嫌な顔をすることなく私に選択肢をくれた。それでとても楽になって、私はドライブを選択した。
 後部座席に座ろうとしたら綾人くんはただ一言「前に乗れ」と言った。週刊誌に写真を撮られたりして大変じゃないのかな。そう不安になってオロオロしていると、綾人くんは怪訝そうな顔で私を見た。

「ま、前乗っていいの……」
「隣じゃねぇとデートって言えねえだろ」

 あ、デートのつもりだったんだ……とようやく気付いた。私は恐る恐る助手席に乗り込んだ。シートベルトをして、隣の綾人くんを見る。綾人くんはいつもと同じ、感情の読めない冷めた目で私を見ていた。綾人くんが何か言いかけて、やめる。気になったけれど聞けないまま、車は発進した。
 私は愚痴でも何でもないどうでもいいことをひたすら話した。綾人くんは何も言わずに聞いていて、時折私を見た。うるさかったかと思って慌てて口を噤めば「何で黙んだよ」と言われたから喋っていいんだと判断した。綾人くんは元々無口な人だ。私の話もちゃんと聞いているのか分からない。それでも綾人くんと同じ空間にいられることが嬉しかった。

「綾人くん、どうして突然どこか行こうって言ったの?」

 私の質問に、綾人くんはなかなか口を開かなかった。言いたくないなら無理に聞くのはダメだなと思って窓の外を見る。名前も知らない街の景色がただただ流れて行った。

「……ダメだと思った」
「えっ?」

 気が付けば車は赤信号で停まっていた。思わず綾人くんを見れば、綾人くんはハンドルに手を置いてその手の上に顎を置いていた。

「俺は、お前の希望を聞いたことがない」
「えっ……」
「いつもお前が合わせてくれて、その居心地が良くて、お前を思いやる気持ちを忘れていた」
「……っ」
「今日も、俺の休みに合わせて休み取らせて悪かった」
「えっ、それは、」
「お前の貴重な休みを俺にくれてありがとう」

 ふっと笑って綾人くんは一瞬私を見た。そして、また前を向いて車を発進させた。……綾人くんがありがとうって言うなんて。まさか何かあったんじゃないかと綾人くんの顔を凝視してしまう。綾人くんはチラリと私を見て「何だよ」と眉をひそめた。

「綾人くん、何かあった?」
「あ?」
「疲れてる?あ、もしかして私何かした?怒ってるの?」
「何でそうなるんだよ」
「だって、綾人くんが優しいと振られちゃうんじゃないかって、不安になって……」

 そう言って後悔した。綾人くんの綺麗な顔が盛大に歪んだから。慌てて唇を噛んだ私の頭に綾人くんの手が乗った。

「俺がお前を振ることはない」
「えっ」
「絶対にない」

 あまりにも優しい顔で言うから、何でか泣きそうになってしまった。
 ドライブで来たのは知らない場所だった。綾人くんはたまに利用しているという隠れ家的な温泉宿に連れて来てくれた。長く付き合っているのに私たちはお互いに知らないことばかりなんだなと思った。

「嫌ならいい」
「……っ」

 お部屋にはとても大きい露天風呂がついていて、綾人くんはそれに一緒に入ろうと言った。でも恥ずかしくて戸惑う。部屋に戻ろうとする綾人くんを慌てて引き留めた。

「い、嫌、じゃ、ない」
「……」

 綾人くんは目を細めて私の真意を探っているようだった。恥ずかしい。けど、嫌じゃない。

「一緒に入ったら抱くがいいのか」
「……!」

 それでいいなんて言ったら、恥ずかしくて爆発してしまう。真っ赤になって目を泳がせる私を見て綾人くんはふっと笑い、頭を撫でた。

「後で来る。覚悟しとけ」

 そのまま部屋に入った綾人くんに、私は顔から湯気が出るような思いをした。その数分後、恥ずかしくて縮こまる私とは対照的にどかっと座る綾人くんというシュールな図が出来上がった。

「おい、今まで何回もお前の体は見ている。それはもう数えきれないほどな」
「っ、暗い部屋で見られるのとここで見られるのは訳が違うの!」
「違わない。どっちも同じだ。俺はお前に触れたくて仕方ない」
「……」

 今までそんなこと全然言わなかったのに。綾人くん、本当に何かあったのかな。……まさか……

「綾人くんもしかしてもうすぐ死んじゃうの?」
「あ?」
「だからそんなことばかり言うの?!病気なの?!」
「人を勝手に殺すな」
「だって……」
「焦ってるだけだ」
「え?」
「お前に捨てられないように、焦ってるだけだ」
「……!」

 綾人くんは私を後ろから包み込むように抱き締め肩に顎を置いた。こんな風に、私を労ってくれるのは初めてかもしれない。

「……綾人くん」
「何だ」
「知らなかったと思うけど、本当は私ドMじゃないの」
「……」
「だから冷たくされるより優しくされるほうが好き」

 そう言って笑うと、綾人くんも少し笑った。綾人くんの腕の中で見る満天の星空はとても綺麗だった。
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