先生がいるから
 夏休み中、一度だけ先生の後ろ姿を見かけた。でも話しかけることはできなかった。私じゃない、他の生徒に囲まれて笑う先生が何だかすごく遠くに感じたんだ。先生はみんなの先生なんだから、そんなの当たり前なのに。私は先生の『特別』なのだと、心のどこかで思っていたのだろうか。

「おはよー」
「……うん」

 二学期の始業式、普通に挨拶してきた山下に応える。夏休み中はお世話になったけど学校が始まると周りの目がある。あまり関わりたくない、そう思っていた。けれど山下はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、何も気にせず私に寄ってきた。そして、HR終わり。

「大橋ー、一条んとこ行かね?」
「……」

 クラスで一番の人気者の男子が地味で無愛想な女子に、しかも一学期に告白事件でゴタゴタがあったのに、普通に話しかけその上誘っているのだから当然周りは好奇心に満ちた目で見てくる。私はそんな視線に耐え切れなくて山下を無視して教室を出た。けれど、山下は大橋、と追いかけてくる。

「……ついてこないで」
「なんで」
「見られるから」
「別にいいじゃん」
「あんたがよくても私は嫌なの」
「大橋」

 不意に山下が私の手首を掴む。ゴツゴツとした感触、私の手首を簡単に包む大きい手。異性だと実感してしまうからやめてほしい。

「注目されるのなんて、一瞬だけだよ。大橋、俺に借りがあるの忘れた?」

 ……何だと。見上げると威圧感のある目が私を見下ろしていた。た、確かに夏休み中山下に勉強を教えてもらったおかげで模試の成績は驚くほど上がった、けど。

「……性格悪」
「褒め言葉として受け取っとく」
「で、どこ行くって?」
「一条んとこ」

 今度は違う意味で立ち止まった。嫌だ。怖い。また冷たくされるのが。怖い。

「……行かない」
「数学は一条に教えてもらうんでしょ」
「……もういい。山下教えて」
「無理だよ俺数学苦手だもん」
「……」

 模試の結果。数学だけ上がらなかったのを思い出す。他の先生に聞けばいい。うん……

「大橋置いてくよー」

 スタスタと前を歩く山下が振り向きもせずに言う。私は一度目を瞑って開けた。大丈夫、勉強教えてもらうだけ。大丈夫。
 山下は私の葛藤など気にもせず数学科準備室のドアを何の躊躇いもなく開けた。中から「おー」と先生の声が聞こえる。私は恐る恐る、中を覗いた。
久しぶりに見る先生はやっぱりムカつくほどカッコよくて。泣きそうになる。不意に先生が私を見る。眼鏡の奥の黒い瞳はじっと私を見据えていて。

「……入んねーの?」

 そして、ふっと笑った。悔しい。冷たくなったりそうやって笑ったり。涙が溢れないようにグッと歯を噛み締めて「入るよ」と言った。

「うん、で、ここにxを代入」
「おー!できた!」

 何故か私の分の教科書とノートも持ってきていた山下の隣で黙々と問題を解いていく。チラッと先生を見ると、一ヶ月前と変わっていないのに変な感じ。髪の毛ちょっと伸びたかな。先生の黒い瞳が私を捕らえる。見ていたことに気付かれたくなくて慌てて教科書に視線を戻した。

「大橋は?わかんねーとこある?」
「……大丈夫」

 どうやって先生と話していたか忘れてしまった。ぶっきらぼうに答える私に何も言わず、先生は山下に視線を戻す。ああ、もう。最悪。

「ごめん、ちょっと俺トイレ」

 そう言って山下が立ち上がった時、私も一緒に行くと言いたかった。けれど、素早く立ち上がってすぐに行ってしまった山下にそんな隙はなく。ガラガラと無情にも閉められたドアが外の世界とこの部屋の空気を遮断した。途端に息苦しくなる。問題に、集中しないと。わかってる、のに。

「……なぁ」

 先生の声にビクッと体が震える。嫌だ。お願い。私に構わないで。

「悪かったな、夏休み勉強に付き合ってやれなくて」
「……っ」
「まぁ、山下がいるなら心配ないだろ。頑張れよ、受験」
「っ、先生、嫌い、最悪」
「は?」
「何、それ、私のこと、見捨てるの」

 耐え切れなくなった涙が溢れる。だって、何、山下がいるなら、って。頑張れよって、何。いつでも来いって言ったじゃん。数学教えてくれるんじゃないの。何で、突き放すの。

「数学だけ、上がんなかった、成績」
「……」
「数学だけは、山下に教えてもらってない、だって、数学は、先生が教えてくれるんでしょ」
「……」
「やだよ、先生じゃなきゃ、私、先生がいるから頑張りたいって思ったんだよ」
「……」
「見捨てない、でよ……」

 ああ、もう。何泣いてるんだろう。見捨てないでって何。先生は先生だけど、他にも生徒はたくさんいるし私だけの先生じゃない。わかってる。わかってるけど、私は先生がいるから頑張れるんだよ。先生に頭撫でられただけで何でもできるような気がするんだよ。先生が……

「……ごめん、大橋、ごめん」

 先生の手が伸びてきて、触れる寸前で止まる。先生はその手を色が変わるほどに握り締め、口を開いた。

「……夏休み中、問題が起きた。まぁもう噂になってるしいつかお前の耳にも入るだろうから言うけど、教師が一人クビになって生徒が一人退学処分になった」
「え、」
「二人は恋愛関係だった」

 恋愛、関係。そういえば始業式の時ある先生が辞めたって教頭が言ってた気がする。その時のざわざわとした空気。みんな知ってたんだ。そう言えば突然突き放されたあの日、先生は長い間戻ってこなかった。そう、職員会議で。

「……お前が、嫌な思いすると思った」
「え……」
「何もない。俺とお前はただの教師と生徒だ。でも、一緒にいることが多い。何でも色眼鏡で見られるこの時期に前と同じようにお前に接してたら、変な噂になると思った」
「先生、」
「お前、変に注目されんの嫌がんだろ」

 守られていたのだと、ようやく気付く。あの冷たかった態度にはそんな理由があったのだと。知った瞬間涙がポロポロと溢れてきて。それは安堵からだった。

「何も、やましいことないんだから、堂々としてればいいじゃん」
「いや、まあ、そうなんだけど」
「注目されんのなんて山下のせいで慣れてきたから平気だよ。ていうか山下のほうが変な注目のされ方してるから」
「……うん」
「だから、先生。冷たくしないで。これからも、数学教えて」

 そばにいたい。そんな不純な動機だけれど。それで頑張れるのだから。

「……わかった」

 先生がそう頷いてくれたから。私は安心して笑ったのだった。
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