戻れない


 俺が初めて彼女を見たのはある雨の日のことだった。赤い傘に隠れるように道路の端に突っ立っていた彼女は、遠くを歩くある男の背中をじっと見つめていた。まるで太陽を見つめる向日葵のように。届かないものに必死で手を伸ばし、健気に追い掛ける。頬に流れる涙は透明で、不純なものなど何も混じっていない。俺はその涙を見て、思った。……クソ食らえ、と。


「お疲れ様でーす」
「お疲れー」

 夏の終わり、蒸し暑い体育館から出ると少しだけ涼しい風が頬を撫でて思わず伸びをした。バスケは好きだ。小学校からやっているし、頑張れば頑張るほど上手くなるし、試合に勝つときつかった練習が報われたような気持ちになる。

「永瀬ー、帰りコンビニ寄ろうぜ」
「おー」

 空を見上げれば丸い月が俺たちを見下ろしている。もうすぐ満月か。ぼんやりしていると、「お疲れー」と甲高い声が聞こえてきた。俺たちとすれ違ってキャピキャピしている女子バスケ部の連中だ。

「永瀬もお疲れー」
「おー」

 話し掛けてきたのは同じクラスの岡野だった。岡野の隣には、名前は知らないけど多分女バスの人。俺を見ていて目が合うとすぐに逸らし顔を赤くする。……何つーか、めんどくせ。

「あのさ永瀬、この子が話あるんだって」
「……何」

 岡野に背中を押されるも、もじもじしているその子はなかなか話さない。あー、早く帰りてえ。舌打ちを何とか抑えていると。その子の向こうにあの人が見えた。……こうやって、あの人の姿が見えるだけで胸が高鳴るようになったのはいつからか。あの雨の日がきっかけであることは間違いない。でもそうとは認めたくない。他の男を想って泣いてる姿に心を奪われたなんて、絶対に認めたくない。

「……お疲れ様でーす」
「あ、お疲れ様ー」

 すれ違った瞬間に香る、柔らかい匂い。いつも彼女が見せるような柔らかい笑顔にピッタリな、香り。

「あ、あの、私、永瀬くんの連絡先を……」
「ごめん。興味ない女とメールとかしてる暇ない」

 傷付いた顔、目の前の女が見せてもどうでもよかった。「そんな言い方しなくてもいいじゃない!」と岡野が怒鳴っている声も。あの人の姿を見れて挨拶を交わせた。それだけでニヤけるのが抑えられなかった。
 それから数日後。部活帰りに寄ったコンビニで彼女を見つけた。いつも友達に囲まれている彼女は、今日も柔らかく笑っている。

「あの人さー」
「あ?」
「あの女バスの主将さん。男好きで友達の彼氏取りまくってるって本当かな」

 同じ男バスの仲間である田辺の言葉に衝撃を受け持っていた炭酸飲料を落としてしまった。男好き?友達の彼氏取ってる?あの人が?……いやいや、まさか。でもあの日、あの人が泣いていた日。男の人の隣にいたのは確か、女バスの人だった。あの人が略奪して、あの男と付き合いだした、とか……?

「そんな人に見えねえのにな」

 女って怖ぇーと言う田辺に「俺先帰るわ」と言ってコンビニを出た。噂、失恋、どこから落ち込めばいいんだ。はぁぁとため息を吐いてさっき買ったジュースを飲む。学校と家の間には大きな公園があって、気分転換にそこを通ってみようと思った。まさかそれが俺と彼女の運命を変えると、もちろんこの時の俺は知らない。
 外灯はポツポツとあるものの公園の中は暗い。ベンチにはたまに制服のカップルが座っていて、リア充滅びろと睨み付けてしまうほどには今の俺は荒んでいる。手に持っているジュースが汗をかく。濡れた手をピッと振った時だった。

「痛っ!」

 茂みの中から小さな声が聞こえてきた。目を凝らして見ても真っ暗なそこ。怖ぇよ、なんて思っていると。

「もう、引っ掻かないでよー」

 次にそんな声が聞こえてきたのだ。何だか聞き覚えのある声。恐る恐る茂みの中を覗いて、体が硬直した。白い子猫を抱いたあの人が座り込んでいたから。

「……何してるんスか」
「あ、永瀬くんお疲れー。この子ね、捨てられてたから放っとけなくて」

 さっきコンビニで見た時は周りに人が沢山いたのに。一人きりでこんな暗い中何やってんだこの人。危ないだろ、そんなツッコミはとりあえず置いといて。

「飼えないなら構わないほうがいいんじゃないんスか」

 そんな生意気なことを言ってしまう。だってそうだろ。ずっとここで面倒見られるわけない。雨の日は、台風が来たらどうすんだ。彼女は泣きそうな顔で笑って「そうだよね」と言った。……そんな顔を、させたかったわけじゃないのに。

「永瀬くんはさ、猫好き?」
「は?」

 彼女はまたあの柔らかい笑顔で俺を見る。眩しい。可愛い。……全部、俺のものにしたい。そんな気持ちが、止められなくなる。

「……好きッス」
「うん、可愛いもんねぇ」
「違う、あんたが」
「わかるよ、この肉球が……、え?」

 驚きに満ちた彼女の瞳が俺に向く。ああ、ここが暗くなければ彼女の瞳に俺だけが映っているのが見えただろうに。

「あんたが他の男のことで泣いてんの腹立つ。だからあんたも、俺のこと好きになってよ」
「ちょ、ちょっと待って、永瀬くん、」
「俺、あんたのこと泣かせないよ。馬鹿だし素直じゃないけど、あんたのこと大事にする」

 目を泳がせる彼女の手から携帯を奪うと、彼女の携帯と俺の携帯を近付けて連絡先を交換した。

「とりあえず連絡するから。返事はいつでもいい。じゃあね、……希さん」

 心臓がバクバクと鳴りすぎて破裂しそうだった。俺今何した?……告白。告白、だよな?うわやべー、やっちまった。つーかあの人、彼氏いるんじゃ……ああああと頭を抱えて座り込む。でも、もう戻れない。
 あの人を、振り向かせたい。
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