恋を自覚した途端、世界が変わる。大袈裟ではなく。私の世界というものはひどく限定的で、一人暮らしの家、通勤電車、会社、よく寄るコンビニやスーパー、それくらい。その世界の中に全てあの人がいないかと探してしまうのだ。

「昨日と同じ服だとさすがに怪しまれるか?」

 そして、今日は探さなくても目の前にあの人がいる。見上げると目が合った。一見クールな切れ長の目。この目が私を抱く時は熱くギラギラと光るのだ。
 じっと見つめていると、「ん?」と耳を寄せてきた。私が何か言おうとしているのだと思ったらしい。ちなみに今朝抱かれている時にこの形のいい耳を何度も甘噛みした。そして、今も。満員電車の中で、甘噛みしてみる。声にならない吐息を漏らして、課長は急いで離れた。

「おまっ、」
「大丈夫、誰も見てませんから」

 そう、満員電車なんて誰も他人のことを気にしている余裕はない。そっと寄り添って大きな手に手を重ね、長い指に指を絡めた。私よりもほんの少し強い力で握り返してくれる。素っ裸で恥ずかしいことして身体ごと絡み合っているのに、指を絡め合わせただけでこんなにドキドキするなんて。

「……死にそう」

 なんて?と聞いてきた課長に何でもないですと返して、いつも憂鬱で仕方のないこの満員電車を存分に堪能したのだった。

***

 組織に属する人間として異動は避けられないもの。半年に一回の異動に内心不安になっていたけれど、私も課長も異動はなかった。つまり少なくとも後半年は職場でも課長のすぐそばにいられる。

「新しくこの部署に配属になった加藤あまねさんです。はいよろしくー」

 課長の紹介に、隣に立っていた女の子は急いで頭を下げる。真っ赤な顔を微笑ましく思いながら拍手をする。顔を上げた加藤さんとパッと目が合った。あれ、あの子どこかで見た気が……

「んー、じゃあ、内田、彼女の教育係に任命。ハイ、全員通常業務開始ー」

 私の隣の席の内田さんが彼女の元に近寄る。そこでやっと彼女の視線は私から外れた。



「お前服持ってたの」

 給湯室でお茶を淹れていると、課長に突然声を掛けられた。課長のお気に入りのマグカップを受け取りコーヒーを注ぐ。

「はい、何かあった時用にロッカーに入れてるんです」
「へー、俺に抱かれて体液まみれになった時用に?」
「違います、雨で濡れたりした時用に」

 新入社員の時に突然の大雨のせいで一日中ビショビショの服で仕事をするハメになったことがあり、それから替えの服は必ずロッカーに入れておくようにしているのだ。違う理由で助かる日が来るとは思わなかったけれど。

「ふーん、ならいつでも泊まれるな」

 それはまた泊まりに行ってもいいと言うこと?呆けている私の手から「ありがとう」とコーヒーを受け取ると、課長は何でもないようにコーヒーを口に含む。
 聞きたい。ハッキリ言って欲しい。また泊まりに行っていいってこと?

「あの……、」
「楠岡課長」
「あ?」

 私の声に誰かの声が重なった。現れたのは加藤さんだった。課長の奥に私がいるのを見て驚いた風な顔を見ると、先程までの会話は聞こえていなかったのだろう。ホッと安堵して給湯室を出る。さっきのことなら、いつでも聞けるし。二人の業務的な会話を聞きながら、部署に戻った。

***

「あ!」

 思い出したのは帰りの電車だった。押されて転びそうになっているOLさんを見て。
 加藤あまねさん。確か1年ほど前のこと。屋上でひとりお弁当を食べていると、声が聞こえてきたのだ。屋上の奥の方に座っている私には全く気付いていないだろう2人の声が。

「楠岡課長、あの、私、楠岡課長のことが好きです」
「……あー、悪ぃ、俺あんたのこと知らない」

 一応申し訳ないとは思っている声だったと思う。自分の上司が告白されている場面に遭遇して少し気まずかったのを覚えている。

「はい、あの、人事部の加藤と申します。あの、もし良ければ、これから食事とか……」
「いや、ごめん、今彼女とかいらないから」

 その時だった。風に煽られたお弁当を包んでいたハンカチの上のお弁当箱の蓋がポロリと床に落ちたのだ。カン、と高い音が響く。急いで拾おうとした私は何故かバランスを崩して……

「おー、パンチラ丸見え」

 転んでしまったのだ。後ろから聞こえた声に慌ててスカートを直す。二人がバッチリ私を見ていた。

「す、すみません、聞くつもりはなくて……」
「おー。それよりお前、怪我してね?」

 課長が私に歩み寄ってくる。置き去りにされた女の子と目が合った。

「わ、私のことはいいので、」
「もう話終わったし。つーか、何でベンチから弁当の蓋拾うだけでこける?弁当はちゃっかりベンチの上だし」
「ひ、拾う時に落ちたら嫌だから……」
「ははっ、お前可愛いな」

 この時はなんてチャラい人なの、と思った。今言われたらすぐ発情しちゃうけど。
 そう、加藤あまねさん。見覚えがあるのはあの時会ったからだ。あの頃は化粧っ気もあまりなかったけど、今は化粧を覚えたようでとても可愛くなっていた。メガネからコンタクトにしたのか、大きな目も目立っていた。
 あんなに恥ずかしい経験も1年経てば風化して、すっかり忘れていたけれど。課長は覚えているのだろうか。彼女が自分に告白してきた人だということを。

「まさかまだ好きだったりして……」

 小さな呟きは満員電車の中で儚く消えた。
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