帰る場所

「ひより、私そっち持つね」
「うん、ありがとう」

 バスを降り、お姉ちゃんに花を手渡す。今日はお母さんの命日。実家のお墓におばあちゃんが絶対に入れたがらなかったので、伯父さんにお金を援助してもらって小さなお墓を少し遠くに建てたのだ。丘の上にある墓地には爽やかな風が吹いていた。
 お母さんに会って、聞いてみたい。先生を好きになって幸せだった?許されない恋を貫くのは、お母さんにとって唯一の選択肢だった?小さな冷たい石は答えてくれないだろう。でも……

「え……」

 隣を歩いていたお姉ちゃんが急に立ち止まった。俯いていた私は顔を上げる。お母さんのお墓の前に誰かがいた。すぐに分かった。息が止まりそうだった。
 足音に気付いたその人がこっちを見る。目が合った瞬間、時間が止まったような気がした。
 ……先生だ。先生がいる。心臓から一気にぶわっと血液が流れ出した。

「なんで、」
「え」
「なんであんたがお母さんの墓参りなんか……!」

 私とは違う意味で頭に血が昇ったお姉ちゃんが先生のところに向かう。必死で止めた。先生は一瞬たじろいで、でもすぐに口を開いた。

「いや、誤解!あ、誤解でもねーけど、俺が墓参りに来たのはこっち!」

 久しぶりに聞いた先生の声にドキドキしながら先生が指差した先を見る。そこにはお母さんの墓石よりも更に小さな石。

「はっとり、ゆうじろう……?」
「ああ。俺の義兄。そんで……」
「……?」
「言いにくいんだけど……、あんたらの母親の、恋人」

 こい、びと……?

「え、恋人?!」
「あ?ああ」
「お母さんの恋人って……、その、先生、じゃないんですか?」

 私の言葉に先生は一瞬ポカンとした後、すごい勢いで首を横に振った。

「違う違う!俺はただの生徒!かすみさんは俺の家庭教師だ」

 お姉ちゃんと私は黙って顔を見合わせた。
 先生の話によると、小さい頃から体が弱く、両親に見捨てられた遠い親戚の子をお父さんが引き取ってきたらしい。その男の子はたまたま先生と同じ名前だったこともあり、すぐに懐いて本当の兄のように慕っていたと。

「そんで、かすみさんが来るようになって……、いつの間にか2人は恋人になってた」

 お母さんに子どもがいることなど知らなかった先生は、仲が良くていつも笑っていた2人を微笑ましく見ていたとか。でも……

「兄ちゃんの体調が悪くなって、かすみさんも日に日に笑顔を見せなくなった。その頃から家に帰らずうちに泊まることが多くなったな」

 そしてその人が亡くなった時、お母さんも一緒に亡くなった。
 先生の口から語られる、全く知らなかったお母さんのこと。私は衝撃で口を開くことすらできなかった。

「ごめんなさい!」

 突然隣のお姉ちゃんが頭を下げた。

「私、あなたがお母さんの不倫相手だと思い込んでました。お母さんはあなたに騙されて死んだのだと……」
「え、俺その頃まだ高校生だったんだけど……」
「……はい、だから更に母とあなたに腹が立って……」

 不思議な気持ちだった。先生は私たちが恨むべき人じゃなかった。お母さんの恋人じゃなかった。ずっとそれを疑うこともしなかったから、本当は何の障害もないと聞かされても実感がない。

「いや、まあ、兄ちゃんはうちに来た後もほとんど家から出なかったから近所の人も知らないだろうし。それに……、俺、かすみさんに言ったんだ。『不倫なんて最低だ』って。その次の日だった。かすみさんが死んだのは……」

 先生の顔が苦しげに歪んだ。先生だってずっと苦しんできたのだ。お母さんが死んだのは自分のせいだって、ずっと……。

「違います。あなたが言ったことは間違っていません」

 姉はいつでも思ったことをハッキリ言う。そんな姉に先生がポカンとしているうちに、お姉ちゃんは墓石に水を掛けた。隣の小さな石にも。

「本当に、お母さんは馬鹿だね……」

 呆れたような、それでもどこか優しい声だった。ずっとずっと恨んでいた。私たちを捨てた母を。母をもう絶対に会えないところに連れて行った男の人を。でも……、お母さんなんだ。どんな人でも、たったひとりのお母さん。姉は今までどんな気持ちだったのだろう。私には想像するしかできない、けど。きっと私が思うよりずっと、孤独に闘ってきたのだと思う。お母さんの思い出と、お母さんへの愛情と恨みと、寂しさと。

「お姉ちゃん、わたし……」
「ひより、ごめんね」
「え?」
「私の勘違いでひよりまで振り回して」
「そんな……っ」
「ひより、私ね、ひよりのこととっても大事だよ。だから、ずっと謝りたかった。私のせいで悲しい思いさせてごめんね」

 姉はきっと、もし先生がお母さんの恋人だったとしても、恨むべき人だったとしても、先生のところへ行きなさいって言うつもりだったんじゃないかと思った。私が、先生のことが大好きだから。

「お姉ちゃん、私もう小さい子どもじゃないから、私の前で泣いていいんだよ。私だってもう、お姉ちゃんを守れるんだから」
「ひより……」
「私もお姉ちゃんがすごく大事。何よりも大事。だから、これからも姉妹で支え合って行きていこうね」
「ふふ、生意気」

 そう言ってお姉ちゃんは泣いた。そして少しだけ笑った。しばらくふたりで抱き合って、お姉ちゃんが黙って離れた。先生と、2人きりになる。

「あの、先生わたし……」
「ひより」

 先生が私の名前を呼ぶ。先生が私の目を見る。それだけで泣きたくなるほど幸せだった。

「風邪引いてないか?」

 涙が溢れた。先生は困ったように頭をガシガシと掻いた。私は泣きながら首をブンブンと縦に振った。

「あー、その、だな、」
「は、い」
「こんなこと言うの小っ恥ずかしくて言いたくねーんだけど、でも今しか言えない気がするから言うな」
「はい……」
「俺と一緒にいてほしい」
「……」
「いや、その、ひよりがもし、嫌じゃなかったら……」

 照れ隠しなのか、いつも無口な先生が饒舌だ。私の答えは決まっている。ずっと前から、私はこの人を独り占めしたいと思っていた。

「一緒にいたいです。先生にいっぱい、酷いこと言ったけど……」
「いや、うん。ひよりが俺と一緒にいたいなら、一緒にいるべきだ。そうだな、決まりだ」

 私の罪悪感なんて吹き飛ばすほど、先生は嬉しそうに笑った。ああ、なんて愛しいひと。

「あの家に……、私も連れて帰ってください」
「ああ。……一緒に帰ろう」

 どこまでも青い空が、私たちを見守るように広がっていた。
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