飛雨

「また雨ですね」

 窓の前でひよりが呟く。その声が切なくて、心の底から寂しそうに聞こえて思わず立ち上がる。ひよりの横に立つとふわりとひよりの香りが鼻をくすぐった。

「……そうだな」

 ひよりは雨が嫌いだ。俺もあまり雨は好きではないが(面倒臭いので)、それとはまた違う。嫌悪、いや、憎悪に近いような気がする。いつも穏やかでほわんとしているひよりの中にある唯一の黒いもの。それが雨に向けられているような気がするのだ。

「なんか2人、雰囲気変わりました?」

 その言葉に俺だけでなく隣のひよりもハッとしたようだ。しまった、原田もいることをすっかり忘れていた。ひよりから慌てて距離を取る。

「いっ、なっ、んなこと、あるわけねーだりょ!」
「先生、今噛みましたね」
「噛んでにゃ!」
「分かりやす!仕方ない、原稿も貰ったことだし2人きりにして差し上げますよ。先生、次回作は家事バイトの女子大生と小説家の官能小説なんてどうで……」
「ふ・ざ・け・る・な!!」

 俺と原田のやり取りにひよりがくすりと笑った。それに少し安堵する。今にも消えそうな、雨を降らせるどんよりと冷たい鉛色の空に吸い込まれそうな顔をしていたから。

「なあ、ひより」

 原田がいなくなり、二人きりになった家。二人の間には降りしきる雨の音だけが響く。たとえ無音の状態でも、ひよりといると心が安らぐことに気付いたのはいつだったか。ひよりもそうであればいいのにと思う。

「何か心配事があるなら俺に言え」

 ひよりの大きな丸い瞳が俺に向く。俺はひよりのことをあまり知らない。通っている大学。アパート。好きな飲み物。好きな食べ物。それくらい。ひよりの中心の、どこか核心的た部分には触れられていないような気がずっとしていた。
 それは、心の中に小さく黒い点を作って、そしていつか大きな塊になって俺の心を覆い尽くす。そんな気がしていたからひよりの心の中を少しでも覗きたかった。俺に対する好意は感じている。それ以外のところ。少しでも俺に見せてほしかった。

「ふふ、今日は洗濯物が乾かないなあ、とか、最近先生がケーキいっぱい買ってくれるからちょっと太っちゃったなあ、とか、それくらいです」
「……それ、俺のせいか?」
「はい、先生のせいです」

 そう言って笑うひよりの笑顔は穏やかで、何の曇りもないように見えた。俺は小さなモヤモヤを抱えながらも、誤魔化されるしかなかったのだった。

***

「じゃあ、帰りますね」
「送って行く」
「大丈夫ですよ、まだ明るいし。お仕事忙しいでしょう」

 ひよりが帰る時間はいつも寂しい気持ちでいっぱいになる。いい年したおっさんが恥ずかしい。ひよりはシロの頭を撫でて「また明日」と微笑んでいる。

「では先生、また明日」
「おう。家着いたら連絡しろよ」
「はい」

 明日も明後日も、一週間後も一ケ月後も一年後も。ひよりはうちに来る。というかもううちに住めばいいのにとすら思っているが、まあそれは置いといて。うちに来るはずなのに何故か不安が拭えない。猫のように、ふらりと姿を消してもう戻ってこないのではないか。

『祐二郎くん、また明日』

 頭の片隅の記憶が嫌な予感を増長させる。そんな俺を置いてひよりは家を出てしまった。

『ごめんね、祐二郎くん。ごめんね』

 か細い声で俺に謝る。その姿は今思い出しても頭がちぎれそうなほどの苦しみを俺に与える。どこかあの日の彼女とひよりが重なる。全くの、別人なのに。
 俺は思わず家を飛び出した。やっぱり送ろう。アパートまで送り届けよう。この不安を、あの日の恐怖を、拭い去るために。

「ひ、」
「ひより!」

 俺の声と誰かの声が重なった。門を出て少し行ったところ、ひよりの前に誰かが立っていた。どこかひよりに似ているような。

「お姉ちゃん、どうしてここに……」

 ひよりの姉か。どうりでよく似ている。ひよりは後ろ姿しか見えない。ひよりの姉はとても怒っているようだった。

「何で、どうして広瀬祐二郎の家から出てくるの?!」

 ……俺?

「お姉ちゃん、ちょっと落ち着いて……」
「広瀬祐二郎は、私達が憎んでも憎みきれない男なのに!」

 甲高く響いたひよりの姉の言葉は俺の胸をナイフのように突き刺した。憎む?ひよりが?俺を?ずっと憎まれていた?なぜ?パニックになる俺にもちろん気付かない二人。姉がひよりの肩を掴んだ。

「ひより!!」
「ごめん、お姉ちゃん、ごめん……」

 ひよりは否定しなかった。ただ弱弱しい声で謝るばかりだった。傘も差さず家から飛び出した俺を雨は容赦なく濡らしていく。俺はその場から動くことができず、ただひよりの花柄の傘が揺れるのを見ているしかできなかった。
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