酷いひと

 あの事件から私に冷たい態度を取ってくるお客さんはいなくなった。と言ってももちろん好意的な態度を取られるわけじゃないけれど。料理を突き返されることがなくなった分、随分働きやすくなった。

「珍しく続いてんな」

 いつものように事務のお手伝いをしに来た悠介さんが私を見てそう言った。私がバイトを始めて二か月。今までのバイトはどれだけ続かなかったのかと苦笑いした。

「見掛けによらず根性あるんだなー」
「翔さんが手出す気にならないだけでしょ色気なさすぎて」

 せっかくメグさんが褒めてくれたのに滝沢の余計な一言のせいで台無しだ。翔さんとはそんなんじゃないからと言い返しても好きなくせにと言われて何も返せなかった。好きなわけじゃ……ないもん。多分。

「はいお待たせー。賄いだよ」
「やった!!」

 今日の賄いは珍しくチャーハンだった。そのチャーハンももちろん美味しかった。そして閉店作業を皆でして揃って店を出た。

「今日はいい天気だねー」
「はい、あ、もうすぐ満月ですね」

 翔さんに家まで送ってもらうのが普通になって、翔さんと二人で歩いていても緊張しなくなった。いや、まだするけど。少しだけ緊張しなくなっただけだけど。翔さんの一歩後ろを歩いていると、翔さんがどれだけ恵まれた容姿をしているかというのがとてもよく分かる。背は高いし脚は長いし、腕も指も全て長い。細い路地を抜けると人通りの多い大通りに出るのだけれど、そこでも翔さんに目を奪われる人が続出。翔さんにしか目が行かないせいで隣を歩いている私に嫉妬の視線を向ける人がいないから助かったけど。翔さんの彼女になる人は大変だろうなと思った。翔さんに釣り合う女の人なんて世界中探しても数えられるくらいしかいないんじゃないだろうか。

「あ、そうだすずちゃん。ちょっと寄りたいところあるんだけどいい?」

 私が着いて行っていいところだろうか。そう思ったけれど翔さんは特に何も言わず、鼻歌でも歌いそうなほど機嫌よく歩いている。とりあえず着いて行って邪魔そうだったらスッと消えよう。

「ここここー」

 翔さんがそう言って入って行ったのは夜遅くまで営業している花屋さんだった。翔さんは適当に花を選んでそれを花束にしてもらうように店員さんに頼んだ。誰かに渡すものだろうか。気になってなんか……ない。さっき言われた滝沢の言葉が頭の中に蘇る。

『好きなくせに』

 ……好きなんかじゃ、ない。好きなんかじゃ。だって好きになったって叶うわけないし。もし、もし万が一叶うなんて奇跡が起こってもさっき自分で思ってたみたいに翔さんに釣り合う女の人なんて並大抵の人じゃない。私なんていつも滝沢に言われるみたいに普通だし平凡だし。それに恋愛経験だってほぼ0。翔さんに恋するなんて、私のキャパシティーを超えている。

「お待たせー。帰ろっか」

 翔さんは嬉しそうに笑いながら花屋さんから出て来た。綺麗、思わず呟けば翔さんは「でしょー」と微笑んで歩き出した。
 それから何故か上手く翔さんと話すことができなかった。そのお花、誰にあげるんですか。翔さんがお花を渡して、顔も知らない女の人が嬉しそうに微笑む。その光景を想像するだけで胸が痛む。必死で考えないようにしていたら翔さんの話を聞いていなくて、「ちゃんと聞いててよ」と拗ねた顔をされたり。翔さんに送ってもらって自分のアパートが見えた時、安心したのは初めてだった。

「あ、じゃあ、送ってくれてありがとうございました」
「うん、お疲れ様」

 頭を下げて、二階に続く階段を上り始めた、その時だった。くん、とリュックを引っ張られて。驚いて振り返れば犯人は翔さんだった。

「な、何ですか」
「ごめん、忘れてた。これ、すずちゃんに買ったんだった」
「え……」

 翔さんが差し出していたのは、さっき買った花束だった。戸惑う私に、翔さんは「ごめん、あまりにも綺麗で。自分で持って帰るところだった」なんて言って笑っている。

「な、なんで私に……?」
「だってバイトいつも頑張ってくれてるし。恥ずかしながら二か月も続いた女の子すずちゃんだけなんだよね」

 こんなことをされて舞い上がらない女の子はいないと思う。今までの女の子だってきっと、翔さんにこんなことをされて期待して裏切られてショックを受けてきたんだろう。だってこんなことをされたら自分は特別だと思ってしまう。翔さんは本当に、酷い人だ。……でも。

「嬉しい……」
「すずちゃん……」
「大事にしますね」

 どうしても、嬉しいと思ってしまう。自分は特別じゃない。そう思おうとしても、もう溢れてくる想いを抑えることなどできなかった。
 私は翔さんが好きだ。叶わなくても、それでも。この気持ちを止めることなどできない。花を見て微笑んでいる私に、翔さんの手が伸びてくる。気付いた時には引き寄せられて唇に柔らかいものが当たっていた。一瞬の出来事だった。

「じゃ、おやすみ」

 翔さんは固まる私を置いて去って行く。翔さんの後ろ姿が見えなくなっても私はしばらくそこから動くことができなかったのだった。

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