兄の本当の気持ち



 朝起きると、隣にエージさんの姿はなかった。働かない頭で昨日のことを思い出そうとするけれど、思い出せるのは兄がいなくなったことと、その理由だけ。やっぱり私は、エージさんも兄も傷つけることしかできないんだと思うと泣きそうになった。……時だった。遠慮がちにエージさんの部屋の扉が開いた。絶対に、エージさんではない。光さんもお兄さんも、こんなに遠慮なんかしないだろうし。だとしたら、楓さんか椿さん……?だけど、私の耳に届いた声はどちらでもなかった。

「英司くん、いる……?」

 その声の主は、明らかにエージさんを恐れていた。

「俺、翼だけど……よければハル貸してほしいな、なんて……」

 声の主、翼さんは私に用事があるらしい。私はのっそりと起き上がった。

「あれ、英司は?」

 翼さんはベッドの中に入っていたのが私だとわかると、遠慮がちに開けていたドアを少し開けた。

「……わかんないです」
「とりあえず、今この部屋に英司はいないんだな?」
「はい……」
「よし」

 翼さんは急に元気な顔になって部屋に入ってきた。

「どうしたんですか?」
「なにが?」

 キョトンとした顔ですっとぼけたことを言う翼さんに、こっちまでキョトンとしてしまった。

「私に、話があったんじゃ……」
「あ、そうだった。あのさ、お前英司と何があったの?」

 単刀直入に聞かれて、口ごもる。だってこれは、私の問題だから。ただ、不安なのは。

「私のせいで、エージさんと兄の仲が悪くなっちゃったらどうしたらいいんですかね。兄も、どっか行っちゃったみたいだし……」

 私がフラフラしてるから、エージさんも、兄までも傷つけてしまう。もし、もし本当に兄が私のことを、その……『女』として見てるなら……。

「まあ、律のことは気にしなくていいよ。明後日には帰ってくるし」

 ……はい?明後日?今この人明後日って言いました?

「な、なんでそんなことわかるんですか……?!」
「なにが?!」

 すごい勢いでその言葉に飛びついた私に、翼さんは若干引いてる。でも、そんなこと関係ない。エージさん、兄が消えたって言ってたのに……

「兄が、兄が明後日帰ってくるって、なんでそんなことわかるんですかー!」
「いや、あのさ、英司からどう聞いたのかわかんねぇけど。律、ゼミで旅行行ってるだけだし」
「え……?」

 私は、昨日のエージさんの言葉を頭の中で繰り返してみる。『消えた』うん、エージさんやっぱりそう言ってた。

「ほ、本当ですか?」
「うん。京都行くっつってた」

 き、京都……。

「英司、お前になんて言ったんだよ」
「兄が消えたって……でも、でも昨日スタジオいたじゃないですか……!」
「夜行バスで行ったから。夜中に出てった」

 ………。私が混乱していた、ちょうどその時。ガチャッと扉を開けて、エージさんが入ってきた。

「……」

 エージさんは私がいるベッドに座った翼さんを無言で見つめる。翼さんの顔がどんどん青ざめていくのがわかった。

「お、お邪魔しました!」

 翼さんはそう言って、目にも止まらぬ速さで部屋を出て行った。エージさんはそんな翼さんを、無言のまま見送っていた。

「バナナ食うか」

 扉を閉めて、エージさんが口を開いた。エージさんの手には、バナナの束。きっとそれが朝ごはん。

「はい、いただきます」
「ん」

 エージさんはさっきまで翼さんが座っていた場所に座ると、バナナを一本くれた。……エージさん、普通?

「え、エージさん」

 私は恐る恐るエージさんに声をかけてみた。昨日の今日で兄の話題を出すのはどうかと思ったから。でも気になるものは気になる。私は勇気を振り絞って口を開いた。

「あ、あの、兄って……」

 エージさんはバナナをモグモグ食べながら、視線だけを私に向ける。

「ただの旅行、なんですか……?」

 私の問いかけに、エージさんはキョトンとした。

「……言わなかったか?」
「……!」

 何だったの、昨日の喧嘩らしきものは……!消えたなんて嘘じゃん……!

「き、消えたって……!」
「あ?」

 エージさんに睨まれて、私は口をつぐんだ。何なの、何なの……?!私が悪いの……?そう思っていると、エージさんの細い指が頬に触れた。

「京都、行きたいな」
「……?」

 まぁ、行きたいのは行きたいですけど……。

「行くか。俺らの初旅行」
「はい」
「よし、じゃあ荷造りすんぞ」

 ……はい?い、今行くの……?まさかねぇ。さすがのエージさんもそこまで……
そう思っていたのに、エージさんは立ち上がると私を見て言った。

「何やってんだ」
「へっ…?」
「お前ん家帰って荷造りしねぇと」

 い、今から行く気だよこの人……!

「え、エージさん今からは無理ですよ……!私学校あるし……」
「今日もサボってんだろうが」
「……!」

 い、痛いとこつかれた……。もう、私エージさんと知り合ってから不良になった気がする……!それまでは休んだこともなかったのに……。

「1日サボろうが3日サボろうが同じだ」

 あ……3日間は帰ってこないつもりなんだ。

「なぁ、陽乃」

 不意に、エージさんが真剣な声を出す。見上げると、まっすぐな目と視線がぶつかった。

「このままじゃダメだって、思ってんだろ」
「……!」
「律と、ちゃんと向き合え」

 ……エージさんは、いつもマイペースで。地球人か疑わしいぐらいだけど。
 エージさんの行動には、いつも理由がある。しかもそれは、ほとんどが和真のためだったりするから。私はどんどん自惚れていく。エージさんに愛されてるって、自覚していく。

「連れてって、ください」
「……あぁ」

 エージさんは、ギュッと私を抱き締めた。私もエージさんの背中に腕を回した。
 私とエージさんは昼過ぎの新幹線に乗り込んだ。新幹線のお金はエージさんが出してくれた。

「ごめんなさい、いつか返します」
「体で払ってくれたらいいよ」
「……」

 そんな変態くさい言葉を言うエージさんになにか言い返そうとしたけど、あまりにも嬉しそうだったから何も言わないことにした。

「京都初めてですか?」
「いや、昔家族で行ったことがある」
「そうなんですか」
「あぁ、旅行じゃねぇけどな」

 その言葉の意味は、あまりわからなかったけれど。聞かないことにした。エージさんの暗い顔を見るのは、辛かったから。それから富士山に興奮したり、ひつまぶしが食べたいとごねるエージさんを必死でなだめたり。京都に着いた時には、私はすでにグッタリだった。

「お前初めてか?」
「はい、初めてです!」

 でもやっぱり、初めての土地は少しテンションが上がる。グッタリしていてもエージさんとの旅行は嬉しかった。エージさんは私の手を握って歩き出す。とりあえず新幹線の改札は出たけれど、そこで立ち尽くしてしまった。

「わかんねぇ」

 エージさんがボソリと呟く。ど、どうしよう……。

「よし」

 エージさんはそう言って携帯を取り出した。……そして。

「もしもし、律か?」

 兄に電話した。私は兄とエージさんの会話を聞こうと携帯に耳を寄せる。

『どした?俺今京都なんだけど』
「俺も今京都なんだけど。ちなみに陽乃もいる」
『……は?』

 はぁぁぁぁ?!と兄が叫んでいるのが聞こえた。

『な、なんで?!』
「旅行」
『なんでハルまで……!学校は?!』
「んー……休み?」
『んなわけあるか!!』
「んなことよりさ、迎えに来てくんね?俺ら京都わかんねぇから」
『いやいや、俺もわかんねぇよ。てか俺ゼミで……』
「は?セミ?んなのいらねーからタクシーで来いよ」
『セミじゃねぇ!それにタクシー使うならお前らがタクシーで来いよ!!』
「京都駅で待ってるから」

 電話の向こうで兄が何か言ってるのを無視して、エージさんは電話を切った。

「とりあえずなんか食おうぜ」

 エージさんはそう言って、とりあえず改札を出ると地下街に降りてレストランに入った。これから兄が来るのに、マイペースすぎる……。
 それから20分ぐらい経って。ご飯を食べていると、携帯が震えた。ディスプレイには、『おにいさま(はーと)』。兄が大真面目に登録した文字が光っていた。

「あ、兄です」
「俺が出る」

 抵抗する暇もないほどの早業でエージさんが私の手から携帯を取り上げた。

「もしもし」
『んだよ英司かよ!話通じねぇからハルに電話したのに!』
「……」
『お前ら今どこ?俺京都駅着いたんだけど』
「地下。飯食ってる」
『……奢れよ』

 まだ電話の向こうでギャーギャー言っている兄を無視して、エージさんは電話を切った。
 それから、たぶん5分後ぐらい。ダンッ!とテーブルを叩かれて、見上げると息切れしてる兄がいた。なんだか、泣きそうになった。兄の姿を見ただけなのに。

「何しに来たんだよお前ら」

 兄は私とエージさんを交互に見やる。私はなぜか、声を出すことができなかった。

「きょーとりょこー」

 そんな私に気付いているのかいないのか、エージさんが気の抜けた声を出した。

「旅行って……、明らかな悪意を感じるんだけど」

 兄は深いため息を吐いた。……その時だった。ガタン、と音を立ててエージさんが立ち上がる。

「俺今日バイトだった」

 ……はい?驚いて立ち上がる私を無視してエージさんは颯爽と去って行く。そこで思い出したんだ。

『律とちゃんと向き合え』

 朝の、エージさんの言葉を。エージさん、まさかそのために……?胸がギュッと苦しくなった。エージさんは、今どんな気持ちなんだろう……。

「あー……とりあえず」

 いつの間にかエージさんがさっきまで座っていたところに腰を下ろした兄が、気まずそうに口を開いた。

「観光でも、します?」
「え……」
「せっかく来たんだし」
「でもりっくん、いいの……?」

 一応、ゼミ旅行なんだし……。

「あぁ、せっかく英司が二人にさせてくれたんだし」
「……っ」

 兄も気付いてたんだ……。

「英司にさ、逃げんなって言われたんだ」

 兄は苦笑いしながら話し出す。心臓がドキドキして破裂しそうだった。

「……俺は、俺が逃げることでお前が幸せになれるならそれでいいって思ってた」
「……」
「でも、お前を苦しめるだけなら……」

 そこまで言って、兄は口をつぐんだ。まだ迷っているみたいだ。私にも、まだ聞く覚悟がない気がした。それほど。私たちにとって重要なことだから。

「……とりあえず、ここ出ようか」

 兄がそう言って立ち上がる。私も急いで兄の後を追った。

「つっても、もう寺とか閉まってんなぁ……」

 兄が途方に暮れたようにため息を吐く。兄を困らせるのが嫌で、私は急いで言葉を紡いだ。

「あ、私散歩とかでも全然…」

 そんな私に、兄は苦笑いする。苦笑いのくせに、ものすごく優しい顔。

「んじゃあ、観光は明日にするか」
「うん!」
「つーか、お前今日どこに泊まんの?」
「……」
「ちょ、お前らどんだけ怖いもの知らず?!」

 よくわからないツッコミをする兄に、今度は私が苦笑いする。京都来るって決めたの急だったからなぁ……。

「……まぁ、俺のホテルに泊まればいいよ。俺と同じ部屋だけど文句言うなよ」

 少し前を歩く兄の背中を眺める。……大きくて、広くて。いつもいつも、私を守ってくれる優しい背中。兄のことが大好きな気持ちにも偽りはないのに。少し糸がほつれると何もかもうまく行かなくて。お互いの気持ちが少し違うだけでお互いが傷つく。どうしようもないことなんだけど。どうしても苦しくなる。
 兄は私を川辺に連れてきてくれた。まだ夏の暑さは残っているけれど、川の近くは涼しかった。

「綺麗だね」
「うん」

 手を繋いで幸せそうに歩くカップル。犬の散歩をするおじいちゃん。平和な光景に、心が和む。

「将来京都に住もうかな」
「あ、いいかも」

 兄と他愛ない話をするのも久しぶり。やっぱり兄といるのは落ち着くな。
 しばらく散歩して、兄のホテルに向かった。途中でコンビニに寄って。ホテルの兄の部屋は、二人部屋で。一緒の部屋だった人には、頼んで他の人の部屋に行ってもらったらしい。……なんとなく、兄と二人きりは緊張する。兄はまったく意識してないみたいだけど。
 兄はベッドの上に、さっきコンビニで買ったものを広げた。ポテトチップスやするめ、兄のお酒と私のジュース。私はさっき遅いお昼ご飯を食べたばっかりだったからひたすらジュースだけ飲んだ。兄もいろいろ食べてたけど、お酒のペースがかなり早くて。

「ハル一緒に寝ようぜー」

 ……悪酔いしたみたいだ。すでに呂律が回っていない兄は、私の膝に自分の頭を置く。兄に膝枕をするのはもちろん初めて。

「りっくん……ちょっと酔いすぎ」

 そう言って兄の肩を揺らすけど、兄は私の足にしがみついて離れない。

「りっくんってば……」
「好きなんだ……」

 小さな声だった。ひょっとしたら聞き逃してしまってたかもしれない、本当に小さな声。でも兄は確実に言った。『好きだ』と。

「好きになっちゃいけない、なんて俺が一番わかってる」
「……」
「でもどうしようもない。ハル以外、愛しいなんて思えない……」

 兄は泣いていた。不謹慎だけど、綺麗な涙だった。苦しみを洗い流すように、兄の目から涙がこぼれ落ちる。私はその涙をそっと、指で掬った。

「だけどな……英司と幸せになってほしいって気持ちも嘘じゃない」
「……」
「ハルが幸せなら……俺も、幸せなんだ」

 ……私は今まで、こうして守られてきたんだ。兄の大きな愛で。苦しみは、兄が全部背負って。兄を傷つけたことがあった。それも、一度じゃない。何度も何度も。でも兄は一度も私を責めなかった。『ごめんな』っていつも、私の頭を撫でた。

「愛してる……」

 その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が零れた。
 兄の、本当の気持ちを。私はきちんと受け止めるべきだと思った。……そして。

「りっくん……私も好きだよ」
「……っ」
「私、エージさんと幸せになる。だけどずっと、りっくんのそばで笑ってるからね」
「……」
「私ずっと、りっくんから離れないからね」

 兄は涙を流しながら。……嬉しそうに、微笑んだ。

「久しぶりに、一緒に寝ようか」

 兄の言葉に、私はもちろん頷いた。兄と同じ布団の中で、兄の温度の中で。私はそっと目を閉じる。
 子どもの頃以来だ。兄と一緒に寝るのは。昔、私は兄と一緒に寝るのが大好きだった。兄と一緒に寝ると、お母さんと寝るよりも安心できたから。それは今も変わってなくて。兄に抱き締められると安心した。
 ……ねぇ、エージさん。私ちゃんと兄と向き合えたかな?兄はちゃんと、私に本当の気持ちを見せてくれたよ……。

 次の日。シャワーを浴びて一息ついていると、枕元にあった携帯が震えた。『着信 早坂莉奈』の字。莉奈、どうしたんだろう……?

「もしもし?」
『ハル?!あんた今どこにいんの?!』
「ちょっと……。どうしたの?」
『椿さんが……!椿さんが連れ戻されたの……!』

 心臓が、止まった気がした。
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