兄と男



 それから、楓さんと椿さんはお城に住み始めた。2人はいつも幸せそうで見ているだけで幸せな気分になった。椿さんの生活費は全部楓さんがバイトで稼いだお金。椿さんも働きたいと言ったけれど、今は1人で歩き回るのは危険だから。楓さんは大学に入ってから、学費も生活費もその他も全部自分で稼いでたらしい。1人くらい増えたってどうってことないって言ってた。

「楓さん男前ですね」

 と言ったら

「男は好きな女のためなら強くなれるんだよ」

 と言っていた。やっぱり男前だと思った。
 私や里依ちゃんの服はサイズが合わなくて、椿さんの服は莉奈が持ってきた。莉奈も私も里依ちゃんも、お姉ちゃんができたみたいで嬉しかった。3人とも男ばかりの環境で育ったせいか、お姉ちゃんに憧れていて。椿さんと一緒にお菓子作ったり、恋バナしたり。すごく楽しかった。

「いつから楓さんが好きなんですか?」
「んー、自覚したのは中学生の時かな。中学に入ったら、楓が驚くほど女の子に人気があって。それまでは私だけの楓だと思ってたけど、違うんだって知った」

 恋バナの中でも皆が興味津々だったのが、椿さんと楓さんの話だった。

「一回自覚したら止まらなくて。実は、先に好きになったの私のほうなんだよ」

 そう言って椿さんは笑った。意外だった。楓さんが本当に椿さんを大事にしてるから。初めから両想いなんだって思い込んでいた。

「好きで好きで仕方なくて。だけど兄妹だからって楓にはずっと振られ続けてた。楓が高校に入って彼女ができたの。辛くて辛くて……死にそうだった」
「……」
「でもね、私が高校に入った時。初めて楓が私を好きだって言ってくれた。本当に幸せで……それからが辛いって、私全然わかってなかったの」

 2人は今まで、どんなに辛い想いをしてきたんだろう。それはきっと、私なんかじゃ想像もできないほどのもので。

「……だけど、諦めたくないんだ」

 そう、椿さんが言った。

「好きなの、楓が。死ぬほど好きなの」

 この、強い想いを。消せる人はいるのだろうか。いつも穏やかな椿さんのこの強い瞳を見て、息を呑まない人はいるんだろうか。
 その時コンコン、と開いたままのドアをノックする音がした。ハッとして入り口のほうを見ると、いつもとは少し様子が違う兄。

「『翔』行くってさ」
「はーい」

 兄はみんなが返事をして準備をしてる間も、じっと私を見つめていた。

「どうしたの?」
「……髪切った?」
「切ってない」
「知ってる」

 そんな会話をした後、兄は背を向けて去って行った。……何だったんだろう。兄が意味わかんないのはいつもだけど、さっきのはさらに意味わかんなかった。

「行こ、ハル」

 莉奈に背中を押されて、私は歩き出した。

「キャー、椿ちゃん!久しぶりー!」

 美沙子さんは、椿さんに会った瞬間すごい勢いで飛びついた。小さい頃の椿さんを知っているらしい。

「でもなんで?亡くなったって聞いたけど……」
「理由なんてどうでもいいよ。椿が生きてたんだから」

 ……楓さんって、本当に椿さん好きなんだなぁ。全部許せるなんて。

「なんか楓が男前になってる」

 美沙子さんはそう言いながら楓さんの髪をわしゃわしゃした。

「俺は元から男前です」
「顔だけだったじゃん」

 美沙子さん……意外と毒舌だね。

「否定できないのが悔しいわ」

 そう言いながらも、楓さんは嬉しそうだった。兄はさっきのが信じられないくらいいつも通りで。別に何でもなかったのかな、と思った。

「そういえば、今年はクリスマスにもライブするんだよね」

 正さんの言葉に、楓さんは頷く。

「俺と律がもう就活だから。もうバンドできないんだよね」
「えっ……!」

 嘘!もう『EA』が見れないの?!

「就活終わったらまたやるよ」

 楓さんはそう言った、けれど。よく考えれば、『EA』がずっと続くわけもなくて。それぞれに夢はあるはず。ずっと音楽で生きていこうと思っている人は4人の中にいないと思う。だから、今の『EA』は兄と楓さんが大学を卒業するまでなんだ。そう考えたらものすごく寂しいなぁ……。
 その時。『翔』の扉がガラリと開かれて。入ってきた人を見て、絶句した。

「こんばんは」

 椿さんと里依ちゃんとエージさん以外の全員が、私と同じ反応をしていた。

「なんで、お前が……!」

 兄の言葉がシーンとした店内に響く。

「光くんが教えてくれたの。ここおいしいって」

 その人はそう言ったけれど、嘘だと思った。だって光さんは、エージさんの言う通りそんなに空気読めない人じゃない。この人に……茜さんに、ここを教えるような、そんな人じゃない。そんな中、エージさんが口を開いた。

「……誰だっけ」

 ……はい?

「なぁ、陽乃。この間話してたじゃん。名前何だっけ」

 エージさんって、空気を読めないのか、それともわざと空気を壊してるのか。わからないけれど、とりあえずすごい人だと思った。

「あ、茜さん……」
「そうだそうだ、茜だ!」

 エージさんのその言葉に、なぜか茜さんが頬を赤らめる。

「名前で呼んでくれるなんて……」

 うわ、あの人ここに乗り込んでくる勇気があるのにかなりピュアだよ!

「こんなとこまで来んなよ」

 兄は本気でうんざりした様子。でもそんな兄にも怯まず、茜さんは言い返した。

「あんなので納得できるわけない!マネージャーってなに?私だって本気で英司くんが好きなのに……っ」

 茜さんの鋭い視線が、私を貫く。知ってるんだ、私がエージさんと付き合ってること。知らないわけないか。この人は一度、あのお城の中まで来たことがある。

「俺らだって普通の大学生なんだよ。恋愛ぐらい普通にさせてくれ」

 兄の言葉に、茜さんは冷たい微笑みを浮かべてそして、言ったんだ。

「兄妹で付き合うって普通の恋愛なの?」

 空気が、ピシリと固まるのを感じた。なんで……なんでこの人がそんなこと知ってるの…?

「……おい」
「……っ」

 低い声に、体がビクリと強張った。その声を出したのは……

「それ以上喋んじゃねぇ」

 兄、だった。兄は茜さんをまっすぐに睨みつけて、身動きしなかった。そんな兄を見たのは初めてで……

「何も知らねぇくせに口出してんじゃねぇよ。お前に気持ちがわかんのか」

 マジギレしてる。兄が、あの優しい兄が本気で、怒ってる。

「兄妹を好きになってしまった時の気持ちが、お前にわかんのかよ……っ」

 ガタン、と椅子を倒して兄が立ち上がる。そして茜さんに歩み寄る。茜さんは固まって動けないらしい。私は反射的に立ち上がって兄の元に走った。だけど兄には何も見えていないらしい、まっすぐに茜さんに向かっていく。

「りっくん……!」

 私は拳が握られている兄の右手をギュッと握った。だけどそれだけでは兄は止まらなくて。右腕に、しがみついた。

「りっくんダメ!相手は女の人だよっ!」
「うっせぇ!!」

 そう言って兄は、私を振り払った。私はその衝撃で吹っ飛んで、テーブルの角で頭を打った。

「……つっ……!」
「律!!」

 私が痛みに声を漏らしたのとほぼ同時。楓さんが、兄の名前を叫んだ。そこでやっと、兄の動きが止まる。兄はもう、茜さんの目と鼻の先まで迫っていた。

「……今誰吹っ飛ばした。よく見てみろ」

 楓さんの、低い声。茜さんから視線を逸らした兄と、目が合った。その瞬間、兄の顔から血の気が引いていく。

「ハ、ル……」

 そしてヨロヨロと、私のほうに向かってきた。倒れこんだ私の前にしゃがみ込むと、兄は私の頬に触れようとして……その手を、下げた。

「ごめ……」
「大丈夫だよ、大丈夫だから、いつものりっくんに戻って……?」

 私がそう言うと兄は私を見て、また視線を外した。苦しそうに、顔を歪めて。

「……もう、無理だ」
「え……?」

 兄は絞り出すような声を出した後、スッと立ち上がって『翔』を出て行った。

「りっくん……!」

 立ち上がろうとした私を、楓さんが制する。

「俺が行く」
「でも……!」
「大丈夫だから。任せて」

 いつも通りの楓さんの王子スマイルが、滲んで見えた。

「大丈夫か」

 座り込んだまま呆然としていた私の前に、エージさんが座りこむ。

「エージ、さ……」
「ん」

 エージさんの顔を見ると、心の中の何かが爆発して

「う、ふえぇぇ……」

 涙が零れ落ちた。エージさんの大きい手がその涙を掬う。その手が温かかったから。私はギュッと、エージさんに抱きついた。

「こ、怖かったよぉ……っ」
「うん」

 エージさんの手が背中に回って、私の背中を撫でる。

「りっくんが……、あんなに怒ってんの初めて見た……っ」
「そうだな」
「りっくんがわかんないよ……っ」
「うん……」

 もう無理って、なにが?どうしてあんなに怒ったの?楓さんと椿さんがバカにされたから?じゃあなんで、あんな風に。自分のことみたいに言うの……っ?

「うぅ……」

 泣き続ける私を、エージさんはずっと抱き締めてくれていた。

「お前ら奥行け」

 すぐ近くで翼さんの声が聞こえて。頷いたエージさんは、私を抱き上げて歩き出した。そして、前に私が鼻血を出して倒れた時に寝かせてもらってた和室に着くと、私を下ろした。

「陽乃」

 エージさんが、私をまっすぐに見つめる。

「どこ打った」
「頭……」
「どこ?」

 打ったところを指すと、エージさんはそこを見て「少し腫れてる」と言った。結構キツく打ったからかな……

「氷持ってくる」

 そう言って立ち上がろうとするエージさんの服を掴む。

「や、やだ……」

 一人に、しないで……。エージさんはそんな私の気持ちを察したのか、また私の隣に座り込んだ。そして、私の体を抱き寄せる。エージさんは何も言わなかった。だから私はいろいろ考えたんだ。兄のこと。エージさんのこと。兄の言葉が意味することを。

「陽乃」

 不意に、エージさんに名前を呼ばれた。

「あんま考え込むな」

 私の頭の中を覗き込んだかのようなエージさんの的確な言葉に、私は黙りこむ。

「考えてもどうにもならないことはあるんだから」

 どうにもならないことって、なに?たとえば、兄のこと?兄の、気持ちとか…?

「エージさん、私……っ」
「陽乃」
「私、どうしたらいいか……っ」
「陽乃!!」

 めずらしく大きい声を出したエージさんに、私は口を噤んだ。

「頼むから……、他の男のことでそんなに動揺すんな……っ」

 ギュッと抱き締められて私はやっと、エージさんが震えていることに気づいた。どう、して……なんでみんな、そんなこと言うの……?

「エージさん……」
「……」
「りっくんは、お兄ちゃんだよ……?」
「……っ」
「なんでそんな……、恋愛対象に入ってるみたいに言うの……?」

 私は、エージさんと里依ちゃんが仲よくしてても、里依ちゃんがエージさんを大好きって言っても妬いたりしない。だって2人は『兄妹』だから。楓さんと椿さんは、特別じゃん。2人を見てるから、『兄妹』の恋愛もありえるって思ってるだけ?それとも……

「ねぇ、エージさん……」

 兄はどうして、あんなこと言ったの?

『お前に兄妹を好きになってしまった時の気持ちがわかんのか』

 なんて。まるで兄が、その気持ちがわかるみたいな言い方……。

「エージさん……っ」
「お前は!」

 グッとエージさんの手に力が入って、エージさんの顔が見える位置まで離れる。

「俺の、女だろ……?」

 エージさん、どうして……不安になった時に言うことを、今ここで言うの……?

「それ以外に、何があるの……?」
「……っ」

 どうして、なんで。みんなみんな、兄が、私を好きみたいに言うの……?
 私は、兄が大好き。一緒にいたら楽しいし。優しくて頼れるし。でもそれはあくまでも『兄』として。『男』として見たことなんか、一度もない。でも、でももし兄が私をそういう風に見てたら……?私を妹としてじゃなく『女』として……

「エージさん、私……」
「……」
「りっくんを今まで、苦しめてただけだったのかなぁ……?」

 兄を、傷つけたことがある。私は今でも十分子供だけれど、今以上に子供だった時。自分のことしか考えられずに、兄を深く傷つけた。もしも。もしも兄が私をそういう風に見ていたとしたら。私は兄のそばにいるだけで、兄を傷つけてたんじゃないだろうか。エージさんに出会わせてくれたのは兄で。エージさんとのこと心配してくれたのは兄で。私が辛い時に一緒にいてくれたのも兄で。

「私がいるだけで兄は……、苦しいのかなぁ……?」

 そう言うと同時に、エージさんが私を抱き締める。強く強く。息もできないくらいに。兄の笑顔が、頭に浮かんでは消えた。
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