まさかの



 もうすぐ夏が来る。

「あつ……」

 窓を開けると、梅雨特有の湿った空気が私を襲った。
 今日は土曜日。だけど私の家には誰もいない。結婚して25年の両親は見ててイライラするほどラブラブで、朝早くから旅行に出かけてしまった。4つ年上の兄は最近姿すら見ていない。もう大学生だし、うちの親はかなりの放任主義だから帰ってこなくても特に気にしない。兄もそれをわかっているんだと思う。
 外は雨だし、なんか空気もじめじめしてるし。今日は家の中でゴロゴロ決定……と、思った時。

「あ、ハルいたんだ」

 リビングのドアを開けて兄が入ってきた。

「うん、久しぶりー」

 何だか久しぶりすぎて緊張する。そんな私に気付いているのかいないのか、兄はキッチンに行って冷蔵庫に上半身を入れていた。

「涼し……」

 いやいややりすぎでしょ。え……ここはツッコむところ?それとも暑い時って冷蔵庫に上半身入れるのが普通なの?せめて首だけじゃない?ツッコんでほしいのかな?
 兄は急に冷蔵庫から出てくると、困惑する私に視線を向けた。

「元気だったか?」
「う、うん…」

 普通の質問に、勢い余ってツッコまなくてよかったと本気で思った。ホッと一息ついた私を、兄は見つめてくる。

「………」
「………」
「………」
「……なに?」

 何か言いたそうに見つめてくるくせに何も言ってこないから、私が先に口を開いた。そんな私の言葉に、兄は悲しそうに眉をハの字にする。

「俺のことは聞いてくんねぇの?」
「は?」
「普通さ、『元気だったか?』って聞かれたら『うん、お兄ちゃんは?』って聞いてくんだろ?」
「は?」
「ハルちゃんは俺に興味ないんだね……」

 ……ウザイ。このテンション果てしなくウザイ。

「いや、興味ないっていうか聞きにくいってか「なんで?!」

 ………。

「だって、兄もう大学生だし、家族に知られたくないようなプライベートとかあるんじゃないかなぁ、なんて……」
「まぁねぇ」

 兄はなぜか自慢げに笑った。

「まぁ、俺にも女の一人や二人いるからな」
「いないっしょ」
「なんで!」
「自分からそう言う人って彼女いないと思う」
「………」
「………」
「今、たまたまいないだけ」
「そう」

 どこまでも見栄を張りたいらしい兄に、私はもう何も言わなかった。何となく緊張して、緊張を解すためにテレビを点けると兄はお湯を沸かし始めた。謎の鼻歌を歌いながらコンビニで買ってきたらしいカップラーメンを開ける兄は随分機嫌がよさそうだ。

「あ、そうだ」

 突然兄に話しかけられて、兄を観察していた私は急いで目を逸らす。そしていかにも今あなたのことを見ましたよというような雰囲気でもう一度兄を見て、冷静を装って答えた。

「何?」
「ライブ、来る?」
「ライブ?」

 口を開いてポカンとする私の顔を見て兄はゲラゲラ笑った。だけど、普通こうなるでしょ!いきなりそんなこと言われたら……

「あぁ、俺バンドしてるって言ってなかったっけ?」

 兄は笑いすぎてヒーヒー言いながら言った。……バンド?

「初耳デスケド」
「あ、マジ?」

 軽く言うけど、私の間抜け面を笑った罪は重い。ツーンと兄から目を逸らすと、兄はまだ笑いながら「ごめんごめん」と言った。てか、いい加減笑うのやめてよ。

「お前、聞いたことない?俺らのバンド、EAっつうんだけど」
「えあ?」
「うん、EA」

 …………

「な、なにぃ?!」

 いきなり立ち上がった私に、兄はもちろん驚く。だけど兄の驚きなんて私の驚きの比じゃない。
 最近、私の通ってる学校で話題の学生バンドがあった。なんでもみんなイケメンで、プロにも負けないほどの腕前らしい。そのバンドの名前、確か『EA』だった気が……。

「あ、兄は『EA』なの?」

「うん、ドラマーだよ。カッコいいっしょ?」

 幼馴染で大親友の莉奈は一言も兄が『EA』なんて言ってなかった。兄ももちろん知ってるし、『EA』大好きで追っかけまでやってるくせに。気づけよ、マイフレンド……!

「あ、兄が『EA』なんて聞いてない!」
「うん、だって今言ったみたいだし?」
「兄が『EA』のドラマーなんて聞いてない!」
「カッコいいぞー!惚れんなよ?」
「兄がみんなの憧れとかキモイ!」
「んだと?」
「チケットくれんの?!」
「あ?あぁ」
「絶対行く!莉奈と行く!」

 大興奮の私は兄からライブのチケットを受け取った。『EA』のライブのチケット、なかなか手に入らないんだよなぁ。

「んふふ」

 チケットを握りしめて気持ち悪い声を出す私に、兄から不思議そうな声が降ってきた。

「お前、『EA』好きだったの?」

 私は、初めは興味なかった。元から音楽はあまり聞かなかったんだけど。莉奈に無理やり渡された『EA』のCD。興味ないけどなんとなく聞いてみよう、って思ったんだ。
だけど、私は『EA』の世界に一瞬で魅了された。音楽のこと、私は全然わからないけど。だけど『EA』が人気ある理由がすごくわかった。
 メロディーにも歌詞にも、音にも、人を引き付ける『何か』があった。その中でも、私が一番魅了されたもの、それは。

「エージさんの、声が素敵」

 私の言葉に兄はげんなりした。

「やっぱりエージか」
「やっぱりって?」
「人気あんのはいつもエージだ!」

 兄は本当に悔しそうに言った。

「俺より年下なくせに生意気!」
「……年齢は関係ないと思いますけど。」

 でも、エージさんに人気があるのは当たり前だと思う。甘くて低くて色っぽい声。そのへんの下手な歌手より全然うまくて、その声はCD通してるのに鳥肌もの。しかもすごくイケメンらしい。そりゃぁ人気出るよね。
 すごいなぁ。兄もあの音楽作ってるんだ。

「兄、すごいね」
「え」
「私、ファンになった歌手って『EA』が初めてなの!」
「歌手、ではないけど……」
「エージさんだけじゃなくて、『EA』の人みんなすごいよ!」
「………」
「私、音楽で人をこんなに感動させられるんだってビックリしたの!」
「会ってみる?」
「へ?」

 たぶんすごい間抜け面してるのに、兄は今度は笑わなかった。その代わり、すっごく優しい笑顔で私を見てた。

「お前みたいなファンに会えたらアイツらも喜ぶよ」
「え、でも……!」

 会いたい、会いたいけど!それって他のファンに悪いんじゃ……

「んじゃぁ、お前は俺の『妹』として会えばいい」
「………」
「そろそろお前のこと、アイツらに紹介しようと思ってたんだ」
「兄……」
「それなら誰も文句言わない。OK?」

 私は兄の優しさに感動してちょっと泣きそうになりながら頷いた。

「よし、じゃぁ決まり!」
「……莉奈も連れてっていい?」
「ちゃっかりしてんね」

 兄はまた爆笑した。

***

『な、なにぃ?!』

 電話の向こうの反応は、まったく私と同じだった。

「ふっ」
『ふっ。じゃないし!なんで今まで黙ってたのさ!!』

 私の幼馴染で、親友でもある莉奈はなぜか私にキレる。

「だ、黙ってたってか、知らなかったってか……」
『自分の兄のことも知らないなんてどんだけ!!』
「ご、ごめん」

 って、私なんで謝ってんだ!莉奈こそ私の兄が『EA』だってこと知らなかったくせに!!

『とにかく!今から家行くから!』

 「はい」と、私が返事するまでに電話は切れていた。私は慌てて一階に降りる。リビングには兄がいて、ソファに座って眠そうに私を見た。

「い、今から莉奈来るから!」
「莉奈ちゃん?久しぶりだなぁ。元気?」
「んな呑気なこと言ってないで!たぶん殴られる!」
「は?」

 兄を隠すのが先か、自分が隠れるのが先か。悩んであたふたしてる間にドスドス足音が聞こえてきた。徒歩30秒の、私と莉奈のおうち。走れば10秒だったらしい。

「あ、莉奈ちゃんひさ……」

 ドス!!

「いってぇ!!」

 やっぱり兄は殴られた。

「な、なんで……」

 兄は殴られた頭をさすりながら涙目で莉奈を見上げる。莉奈は般若のような形相で、じっくり見つめるのも恐ろしかった。

「なんで自分が『EA』だって言わないの!」
「だ、だって会ってなかったし…」
「あんたは電話もメールもできないの?!いつの人間?!」
「そ、それはできるけど莉奈ちゃんが『EA』好きだなんて知らないし……」
「知っとけ!」

 ゴツン!とさっきと同じところを殴られた兄は悶えていた。それにしても理不尽な莉奈の怒り。兄も大変だなぁ、なんて呑気に考えてた私に、莉奈の怒りの矛先が向いた。

「ちょ、ちょ、ちょ…!」

 もはや言葉にならない。それくらい私は莉奈にビビっていた。だけど、私の耳に届いたのは意外なもので。

「はぁ」

 ため息だった。それも、呆れてるようなため息。このため息は、莉奈の怒りが静まった印だった。

「まぁ、仕方ないか」

 それをもっと早く気づいてくれ!できれば、兄を殴る前に気づいてほしかった!

「なによ」

 そんな私の考えを見抜いたように莉奈は鋭い視線を私に向ける。

「な、なんでもございません……」

 私は簡単に、その視線に屈した。

「で?ライブのチケットくれるんだって?」

 兄の向いのソファに座った莉奈は、かなり上から目線で兄に言った。それを全然気にしてない様子の兄は頷く。

「莉奈ちゃんも『EA』のみんなに会いたい?」

 その言葉に、莉奈は少し俯いた。そして、首を横に振った。

「え……?」

 私と兄の声が重なる。だって、莉奈の反応はものすごく意外だった。あんなに『EA』が好きな莉奈。『EA』の追っかけまでしてる莉奈。莉奈は絶対に、『EA』の人に会いたがると思ってた。

「なんで?」

 兄の、明らかに困惑した声が耳に届く。莉奈は何も答えない。しばらく沈黙が続いた。そして、次に口を開いたのは兄だった。

「いや、別に無理して会う必要ないんだけど。嫌なら会わなくても……」
「会いたくない、わけじゃない」

 莉奈にしてはめずらしく小さい声だった。白黒ハッキリつけたがる性格の莉奈は、いつもハッキリしてた。性格だけじゃない。口調もハッキリしてる。嫌なことは嫌ってハッキリ言うし、違うって思うところもハッキリ言う。そのせいで誰かと衝突することはあるけど、誰も莉奈を嫌いにはならなかった。それはたぶん、莉奈の意見が間違ってないから。莉奈の言葉はいつも、相手を考えての言葉だから。私はいつもそんな莉奈に憧れてた。その莉奈が今、小さく見えた。

「ライブには行きたい。だけど、会いたくない。でも、会いたい」

 私と兄はもちろん莉奈の言葉に困惑する。だけど、莉奈自身も困惑してるみたいだった。

「ご、ごめん!何言ってるかわかんないよね……」

 また沈黙が続いた。そして、莉奈がゆっくり口を開いた。

「…私、『EA』の人に会うの怖い」
「なんで?」

 めずらしく兄も真剣な顔だった。

「私、『EA』大好きなの、ほんとに。自分の中で『EA』の人物像作り上げてるところもあって…それが裏切られるのが怖い。私の中で『EA』は憧れの芸能人と一緒だから」
「………」
「勝手に人物像作り上げて失礼かもしれないけど、エージもカエデもリツもツバサも、私の中で出来上がってんの」

 エージさんは、私も知ってるボーカル。リツは兄の名前。『カエデ』と『ツバサ』っていうのがあとの二人の名前なんだと思う。
 また沈黙が続いた。兄は真剣な顔で何か考え込んでるし。莉奈も、ちょっと兄に申し訳なさそうにしてる。私はどうしたらいいのかわかんなくて、兄と莉奈を交互に見つめていた。

「莉奈ちゃんさ」

 次に口を開いたのは兄だった。

「俺らの人物像勝手に作り上げてるって言ったよな?」

 ビクっと莉奈の体が揺れた。兄は何言おうとしてるんだろう。莉奈が傷つくこと言わないかな、ってちょっと不安になる。
 だけど、兄の声は優しかった。兄は、滅多に怒ったりしない。だから、兄を信じた。
深く息を吸ってすーっと吐き出す。私はしっかり目を開けて、兄の次の言葉を待った。

「莉奈ちゃんはさ、小さい頃から俺のこと知ってるよな?」

 莉奈は小さく頷く。私の幼馴染なんだから、もちろん兄と莉奈も幼馴染だ。

「小さい頃は一緒にお風呂も入ったし、俺がバカなのも知ってるよな?」

 莉奈はまた頷いた。「そこは頷くのちょっと躊躇えよ」と兄は笑った。大丈夫。兄は莉奈を傷つけたりしない。確信を持った瞬間だった。

「莉奈ちゃんは、俺のダセェところもカッコ悪ぃところも全部知ってる。そんな俺が『EA』だって聞いて、莉奈ちゃんの俺への見方は変わったか?」

 ハッとした。兄が言おうとしてることがわかった。莉奈もわかったみたいで、驚いた顔を見せた後勢いよく首を横に振った。

「律は律だよ……」
「うん、そう。俺は俺。確かに俺は『EA』のドラマーでライブの時なんかはキャーキャー言われるよ。だけど、俺はただの『片桐律』だ。ハルの兄貴で莉奈ちゃんの幼馴染。それは変わんねぇ」
「うん……」
「『EAのリツ』の人物像は自由に持ってたらいい。だけど、『EA』じゃない俺は片桐律だ」
「………」
「それは他の奴も一緒。英司は英司だし、楓は楓。翼は翼。みんな『EA』の時と普段は全然別だから」

 兄の言葉は、本当に的確だった。『人物像』を持ってる莉奈を否定しなかった。有名になればなるほど、色んな自分が出てくる。普段の自分、ライブの時の自分、ファンの前の自分、ファンの中で勝手に作り上げられる自分。それは仕方のないことなんだ。人にはそれぞれ違う感じ方があるし、少しのことでイメージも変わってしまう。
 だけど、兄や『EA』の人たちはちゃんと自分を持ってる。それは変える必要のないもので、変えようのないもの。だから、私も莉奈も兄が『EA』って聞いても何も変わらないんだ。
 兄は兄だから。今私の目の前にいるのは『EA』のリツじゃない。小さい頃から知ってる、『片桐律』なんだ。

「もう一回聞く。『EA』のみんなに会うか?」

 兄の声はどこまでも優しかった。私と莉奈がよく知ってる『片桐律』だった。莉奈はもちろん、頷いた。

「まさか律に諭されるとは思ってなかった」

 莉奈は苦笑した。だけどその顔はどこか清々しかった。

「まぁねぇ。俺ってばカッコよくなったっしょ?」
「調子に乗るな」

 莉奈と兄の関係は相変わらずだった。

「ところで莉奈ちゃんは誰のファンなの?まさかエージ?」

 苦々しげに兄は言う。そんなに嫌なら聞かなかったらいいのに。

「私はエージじゃなくてカエデだよ」
「なにぃ?!カエデ?!あの変態ギターマンのどこがいいんだ!」
「知らないけど、律に言われたくないと思う」
「………」
「しかもギターマンってなに。律ダサイよ」
「………」

 莉奈強し。

「ま、まぁとにかく。今度の土曜日でいい?みんなに会うの」
「うん」
「ハルも?」
「あ、うん!」
「じゃぁ話しとくわ」

 フフフンと鼻歌を歌う兄は『EA』に見えないけど『EA』らしい。なんかまだ実感が湧かない。

「ねぇ、会うってどこで会うの?」
「たぶん俺らがいつも練習してるとこ」
「え、『EA』の?!」
「うん」
「すごい!それってどこ?!」
「エージの家」
「え、エージの?!」
「うん。アイツお坊ちゃまだから」

 兄はそう言ってバカにしたように笑った。どうしてもエージさんをイジリたいらしい。

「え、じゃ、じゃぁエージさんの家にお邪魔するってこと?!」

 久し振りに口を開いた私を、兄はビックリした顔で見た。

「ま、まぁ。ちなみにエージの親父は代議士だよ」

 そ、それってすっごいお金持ちなんじゃ……。知らなかったエージさんの姿に、私は少しビックリしていた。
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