それぞれの幸せ
夢を見た。兄が私をギュッと抱き締めて、囁くの。『愛してる』って。
ねぇ、兄は私が望めば何だってしてくれたよね。じゃあ私は……私は兄のために何かできた?誰よりも私のそばにいて、誰よりも私を想ってくれた兄に私はちゃんと、お返しできたかな?
ねぇ、兄。どうして泣くの?兄が望むなら、そばにいてあげる。兄のためなら私の幸せなんて……。
夢の中の私は、確かにそう言った。でも、エージさんはどうするの?私はエージさんが好きなんじゃないの?兄のためならエージさんへの気持ちを捨てられるの……?私はどうすれば……
そこで、目が覚めた。私はいつの間にかベッドで寝ていて、兄が私の手を握って俯いていた。
「兄……」
私の声に、兄が顔を上げる。
「ハル、目覚めたか」
「うん……ごめん、みんなは?」
「飯の準備してる」
長く眠っていた気がしたけれど、実際に眠っていたのは20分ほどだった。
「兄、もしも……もしもだよ?」
「うん」
「私が、エージさんと別れて」
「……」
「兄のそばにずっといる、って言ったらどうする?」
兄は一瞬驚いたように目を見開いて、すぐに微笑んだ。
「喜ぶ、かな」
「……」
「半分は」
半分……?意味がわからなくて首を傾げる私の頭を、兄は優しく撫でた。
「お前がそばにいてくれるのは嬉しい。だけど、英司と別れるのは悲しい」
「どうして?」
「お前が、俺の幸せのために自分の幸せを諦めるのは嫌だ」
「……っ」
じゃあ、どうして?どうして兄は私の幸せのために自分の幸せを諦めるの?そんなのおかしいよ……兄に申し訳ないよ……
「ハル、言っただろ。お前は何も心配せずに自分のことだけ考えて生きればいい」
ねぇ、私は兄にも幸せになってほしい。兄が大好きだから。兄を置いて、自分だけ幸せになるなんてできないよ。
「はい、この話は終わり!動けるならみんなのとこ行こう」
兄が支えてくれて、私は何とか起き上がった。そして兄に手を引かれて階段を下りる。その間もずっと、私の頭は混乱していた。
1階に下りると、女の子2人が野菜切っていて、庭で楓さんと翼さんが火をつけていた。エージさんはその近くで一人、キャベツをもしゃもしゃ食べていた。ふと、エージさんが私に気づく。そして私を見て、ふっと微笑んだ。……あぁ、やっぱり大好きだ。すっごく、大好きなのに。兄のことを考えると、胸がギュッて痛くなる。
「……大丈夫か」
みんなが私に駆け寄ってきて、エージさんが頭を撫でてくれた。
「はい、大丈夫ですよ」
だから私は、笑顔を作った。今は自然に笑える気がしなかったから、無理やり。
「ハルちゃん、ごめんね」
「里依ちゃんのせいじゃないよ」
里依ちゃんにも、笑顔を作った。
「よし、BBQしようぜ、ばーべきゅー!」
それから莉奈と里依ちゃんが切ってくれた野菜とお肉を持ってみんなで庭に出た。 『EA』のメンバーはお酒を飲んで、翼さんは疲れていたからか一口飲んだだけで真っ赤になっていた。
「陽乃、一緒に風呂入ろうぜ」
「……!」
エージさんの耳元での囁きに真っ赤になる私。そんな私たちを見て翼さんが叫んだ。
「イチャイチャすんなよお前らー!なんか寂しくなるじゃんかよー!」
「おい、酔っ払い。あんま絡むんじゃねぇよ」
「うっさいな、楓ー!お前ムカつくんだよ!」
酔っ払いで可哀想な翼さんは今度は楓さんに絡み出した。
「俺はお前のこと許してねーからな!」
「……おい、翼」
「椿を傷つけたお前を一生……!」
「翼!」
兄が翼さんを怒鳴ると、翼さんはさすがに黙った。それでも未だに腹の虫はおさまらないらしく。
「んだよ、律も楓の味方か。……いいよ、もう」
そう言って翼さんは中に入ってしまった。
「アイツ全然食べてねーじゃん」
楓さんは、表情を変えずにいつも通りに言った。楓さんって、すごく大人だと思う。楓さんにとっても椿さんの話は痛いはずなのに。
「ハルちゃん、悪いけどアイツのとこ行ってやってくんね?」
「へっ?」
「英司、ちょっとハルちゃん借りる。ハルちゃん、よろしくね?」
そう、ほぼ無理やりお肉やら野菜やらが乗ったお皿を持たされた私は中に入って翼さんを探し始めた。トイレとかお風呂にいたらどうしよう。さすがに諦めていいよね?そう思っていたけれど、翼さんは案外簡単に見つかった。
「なんだよ、どうせお前も楓に言われて来たんだろ」
翼さんは階段の真ん中ぐらいに座ってうなだれていた。
「まぁ、そうですけど」
「ちょっとは否定しろって」
「でも。一番心配してたの楓さんですよ?」
そう言うと、翼さんは頬を膨らませた。……え、この人いくつ?
「わかってんだよ、アイツが俺を気にしてるってことくらい」
「……」
「だけどさ、ムカつく」
「……」
「ただの妬みなんだけどよ、大事なもんは全部アイツが持ってくから」
翼さんはきっと、楓さんに憧れているんだ。何でもできて、愛想がよくて、みんなに好かれて。そんな楓さんみたいになりたくて、だけどなれなくて。憧れが妬みに変わってしまったんだね。
「翼さんって不器用ですよね」
「あ?」
「楓さんが好きなら好きって素直に言ったらいいじゃないですか」
「なっ……!何言ってんだお前!俺が楓を好きなわけねーだろ、律じゃねーんだから!」
……まだそのネタ引きずるか。
「い、いや、そういう意味じゃなくて……」
「俺が好きなのはお前だけだ!」
……はい?固まる私を見て、自分が何を言ったか気付いたらしい。そして、固まった。
「……翼さん、今なんて」
「はわわわわわ!」
「つ、翼さん!」
「はわわわわわわわわわ!」
「と、とりあえず落ち着いて!」
頭を抱えて叫ぶ翼さんの両肩を持って押さえる。するとやっと翼さんは叫ぶのをやめて座った。
「やべぇ、英司に殺される英司に殺される……」
「だ、大丈夫ですって」
「いや、そうだよな、逃げてちゃダメだよな」
「……?」
「俺、お前のこと好きっぽい」
「……っ」
「好きだ」
そう言った翼さんの顔は、いつものヘタレな翼さんとは全然違って。少しだけ、本当に少しだけドキッとしてしまった。
「だってお前といてもドキドキしねぇし」
……
「りなと違ってお前には女っぽさ感じねぇし」
……え?
「それに、お前のこと考えても心臓ギュッてならねぇし。りなのこと考えるとなるんだけどな」
……はい?
「だから俺、お前のこと好きだと思う」
「あのー、翼さん……」
「いや、わかってるから!お前には英司がいるってことくらい」
「いや、あの、そうじゃなくて」
「……?」
「それって、莉奈のこと好きなんじゃ……」
「……」
「……」
「……はぁ?!」
「……え?」
「そそそそんなわけねぇだろ!」
そしてこっちが引くくらい焦り始めた翼さん。だって、だってだって……!
「私、エージさんといるとドキドキします」
「……」
「エージさんのこともちろん男の人として好きです」
「……っ」
「エージさんのこと考えると心臓がギュッて痛くなります」
「……!」
「私、エージさんのこと好きです……」
翼さんはまた私を見て固まった。けれど瞳が揺れているところからして、かなり動揺しているらしい。
「お、俺……」
「……」
「りなのこと、好きなのか?」
「……たぶん」
「……俺、女怖いから女がいるとドキドキすんだ」
「……」
「だからドキドキしねぇから好きなんだと思ってた。そうか、俺りなが……。あの……なんかごめん」
あの、なんで私が振られたみたいになってるんですか?ていうか私のドキッを返せー!!
「こ、このやろー!」
ムカついたから翼さんの首を絞めてやった。
「お前ら随分仲いいんだな」
低い声が聞こえて階段の下を見ると、ご機嫌が麗しくない様子の皇帝が立っていた。エージさんは私から目を逸らして、翼さんを睨みつける。それだけで翼さんは可哀想なくらい焦っていた。
「ちょっ、よく見て英司!首絞められてんの俺!よく見て!」
だけどこの機嫌の悪さは、嫉妬からではないと思う。……まぁ、根拠なんてないけれど。
「陽乃、ちょっといいか」
「ど、どうぞご自由に……」
ちょっ、それ翼さんが言うことじゃないでしょ。エージさんもそう思ったのか、また翼さんをキッと睨みつけた。何だか、今エージさんに逆らうのはヤバい気がして……だからと言って、いつも逆らえるわけではないのだけれど。私は立ち上がって、階段を下りた。
ちょっと空気が読めていなかった翼さんもようやくエージさんがいつも以上に機嫌が悪いと気づいたらしい。エージさんのそばに行った時にバレないように見上げると、心配そうな顔でこっちを見ていた。……翼さんの恋愛相談はまた今度だな。こんな状況で、私は呑気にそんなことを考えていた。
エージさんはただ無言で歩いていた。手も繋いでくれないところからして相当怒っているらしい。コテージのそばに小さな公園があって、エージさんはその中にあるベンチに座った。
「……座れ」
無言で頷いて隣に座る。どれくらい近づいていいのかわかんなかったから、とりあえず0.5人分くらいの間を空けて座った。
「もう大丈夫か」
とりあえず、体を心配してくれているらしい。
「あ、はい。大丈夫です」
エージさんはそれからしばらく無言だった。いつもは苦痛じゃない沈黙が今日は痛い。エージさんの様子を見るのも怖くて、俯いた。
「なぁ」
「……はい」
「悪いけど、聞いちまった」
「……」
「律のために俺と離れる気か」
まさか、まさか聞かれているなんて思わなかった。兄が言うわけないから、私の様子を見に来てくれた時に聞かれたんだろう。どうしよう。何て言ったらいいんだろう。できるかできないかは別として、エージさんと離れたら……って思ったのは、口に出したのは事実だから。
「……なぁ」
「……」
「おいって」
「わかんないんです……」
私は今の気持ちを、そのまま口にした。
「兄は私のためにいろいろしてくれるのに、私は何もできなくて」
「……」
「私、前に兄に言っちゃったんです。『兄なら私を守ってよ、兄のせいで私イジメられるんだよ!』って」
「……」
「兄は兄なりに私を守ってくれてたのに。私がイジメられたのは兄のせいなんかじゃないのに」
「……」
確かに、兄がカッコいいから私を兄の彼女だって勘違いした人に呼び出されていたのは事実。でもそんなの全然平気なのに。兄は私の自慢のお兄ちゃんなのに。兄がお兄ちゃんじゃないほうが嫌なのに。私が子どもだったせいで、兄を深く傷つけた。
あの時の兄の顔、今でも夢に出てくるの。ごめんな、ごめんなって、兄はずっと泣いていた。わかっていたはずなのに。兄はいつでも、私が傷つかないように守ろうとしてくれてたこと。……わかっていた、はずなのに。
私はそれから、『りっくん』から『兄』に呼び方を変えた。呼ぶだけで、周りに兄が私のお兄ちゃんだってわかるように。彼女だって勘違いされないように。
それがどれだけ兄を傷つけたかなんて、少し考えればわかるのに。私は最後まで自分のことしか考えていなかった。
「だから、兄は自分の幸せを諦めるようになったんです。私を守らなきゃならないから」
「……」
「……私、兄のそばにいなきゃいけないんです。あの日傷つけたこと、ちゃんと償わなきゃ。兄を差し置いて幸せになんて、なれません」
エージさんは、何も言わずにただ私の話を黙って聞いていた。あぁ、これって別れ話なのかな。エージさんが『わかった』って言ったら終わっちゃうのかな。本当は離れたくないなんて、私はなんて欲張りなんだろう。それなのにエージさんが発した言葉は、予想外のものだった。
「お」
「お?」
おってなに?終わりのお?困惑していると、エージさんがスッと立ち上がった。え、おだけで終わり?もう話す気もないってこと?エージさんはベンチの後ろにあった草むらに行きしゃがみこんだ。え……?え、意味がわかんな……
「おえぇ」
……………。これってあの、もしかしなくても……吐いてます?
「おえぇぇぇ。……ちっ、飲みすぎた」
いや、あの、エージさん。ちょっとは空気読みません?
あの「お」は「おえ」の「お」だったらしい。……なにそれ。別れ話してたのに。……まぁ仕方ないけどね。私は近くにあった自販機で水を買うとエージさんの隣にしゃがみこんだ。
「大丈夫ですか?そんなに飲んだんですか?」
「……お前が、離れるとか言うから」
「……!」
「やけ酒した」
「……ごめんなさい」
エージさんは水をガブガブ飲むと、ベンチに戻った。私が座ると、私の膝に頭を乗せた。…いわゆる膝枕。下から見上げられて恥ずかしいけれど、エージさんにそんな余裕はないらしい。
「あ〜酒で吐いたの初めて」
本当にキツそうだ。
「大丈夫ですか?」
「お前の太ももプニプニで気持ちいい」
こんな変態ちっくなことが言えるってことは、まだまだ大丈夫っぽい。
「……なぁ」
「はい」
「お前、俺のこと好きか?」
「……はい」
「じゃあ離れる必要なんてねぇよ」
「……」
「俺の気持ちはどうなんだよ。俺のお前と一緒にいたいって気持ちは無視すんのか」
私はやっと、エージさんを傷つけていたことに気付いた。
「……それに、律は俺らが離れることなんて望まねぇ」
「……」
「俺と別れたらお前泣くだろ?律がお前が泣くようなこと望むわけねぇじゃねーか」
「……じゃあ、兄はずっと幸せになれないんですか?ずっと私のために……」
「アイツにとっての幸せなんか、アイツにしかわかんねぇよ」
「………っ」
「アイツにとっては、女作ることよりもお前のこと考えて守ってってしてるほうが幸せなんだ。だからお前が責任感じることない。アイツにはお前以上に大事な女ができたことないだけだ」
「でも兄、自分から女の人遠ざけて……」
「本当に大事だったら離れらんねぇよ。大丈夫だ。アイツにもいつかできる。お前以上にとは言わなくても、お前と同じくらい大事な女が。お前はただ、その時に笑って祝ってやればいい。そしたらアイツ、泣いて喜ぶんじゃねえかな」
そう言ってエージさんは優しく笑った。私は、本当に何もわかっていなくて。兄を傷つけて、エージさんも傷つけなきゃわからない子どもで。だけど、そんな私でも兄が守りたいと思ってくれるなら。エージさんが、一緒にいたいと思ってくれるなら。私は精一杯、笑っていようと思う。自分の幸せを、追いかけようと思う。
「わかったらもう俺から離れようなんて思うなよ。お前は俺の女だからな」
「……はい」
キスしたくなったけどやめておいた。だって、さっきその……吐いてたし。明日また二人きりになったらいっぱいキスしてもらおう。
「エージさん」
「あー?」
「大好きです」
「……おう」
やっぱり、私はエージさんが大好きで大好きで。だけど兄も大好きで。どっちも大切にできる方法だって、きっとある。
だからまず、兄を前みたいに『りっくん』って呼んでみようと思う。そしたら兄はきっと、泣いて喜ぶ。私にはまだわからないけれど、いつかわかるようになりたい。自分のことは棚に上げてでも、幸せになってほしいと思う気持ち。いつか兄みたいに、そういう風に思えるようになりたいと思った。
「なぁ、俺にキスしてこねぇのは、もしかして俺がさっき吐いたからか?」
「……!」
「図星かおい」
図星だけど、はいそうです。なんて言えるわけない。必死でごまかしてたら、
「それじゃあ毎日吐いてやろう」
なんて恐ろしい言葉が聞こえた。