好きで好きでたまらない人
目が覚めると、どこか見覚えのある部屋にいた。布団から微かに香るのは……あの日、私が切り捨てた人の香り。
「あ、目覚めた?」
「龍也くん……」
私どうしたんだっけ。……あ、エージさんとさよならしたんだ……。
「ここって……」
「あぁ、俺ん家だよ」
やっぱり。見たことあるって思ったんだ。
「ねぇ、龍也くん」
「んー?」
「迷惑かけてごめんね」
「……ハル……」
龍也くんは悲しそうな顔をして私を見た。
「好きな奴が苦しんでんのにさ、迷惑なわけないじゃん。俺が勝手にそばにいるだけだよ。俺、あの時面倒なんて言ってないよ。ただ辛いとは言った。俺のせいでハルが苦しんでんの辛かったから。だけど一番辛かったのはハルだよな。かなり無神経なこと言った。……そばにいたい。ハルの、そばにいたい……」
そう言って龍也くんは私を抱き締めた。そして。ゆっくりと顔が、近付いてくる。
ねぇ、エージさん。もうエージさんには会えないよね。なのになんでこんなに、エージさんで頭がいっぱいなの……?
「……ごめん」
私の言葉に、龍也くんの動きが止まった。私ね、龍也くんと別れたあの日。もう絶対に恋なんてしたくないと思った。こんなに辛いなら、ただ好きなだけなのにこんなに悲しいなら、恋なんていらないって、そう思った。
……だけどね、私また恋をしたよ。その人はいつもボーっとしていて、何を考えているかわからなくて。でも実は誰よりも周りを見てて、すごく優しい人。私を温かい腕で包んでくれた、綺麗な人。
いつか、エージさん言ったよね。俺たちが出会ったのは、お互いを救うためだったんだ、って。私はエージさんと出会って、エージさんに恋をして本当に、救われたんだ。
「エージさんが、好き」
声にすると、涙が溢れた。もう私を優しい瞳で見てくれないかもしれない。もうあの甘い声で私を呼んでくれないかもしれない。もうあの力強い腕で私を抱き締めてくれないかもしれない。……でも。でもね?
「エージさんが、好き……っ」
あなたが恋しくて、恋しくて。涙を流したこの小さな存在を、どうか、忘れないでください。
龍也くんは「そっか……」と呟いた後、ただただ私の頭を撫でてくれた。私はその優しさにもさらに涙が止まらなくなって。
帰ろうと外に出た時はもう真っ暗だった。送る、と言ってくれた龍也くんに素直に甘えて、二人で歩く帰り道。ふと、龍也くんが口を開いた。
「ハル、ありがとな」
「龍也くん……」
「幸せになれよ」
あぁ、龍也くんとはもう会えないんだなと思った。そばにいる、って言ってくれたけれど私の気持ちがこんなにハッキリしてるから。龍也くんのことはもう、見ることはできないから。中途半端にそばにいるくらいなら、もう会わないほうがいいと思う。
私が今、龍也くんに言えることって何だろう。ごめんね?…ううん、それじゃ悲しすぎる。大好きだったよ?……今でも、恋愛感情ではないけれど龍也くんを好きなことに変わりはない。……じゃあ。
「ありがとう」
これしか、ない。確かに辛かった、悲しかった。出会わなければよかった、って思ったこともあった。だけど、龍也くんを好きになって確かに私は幸せだったんだ。
「本当にありがとう、龍也くん」
「ハル……」
「龍也くんこそ、幸せになってね」
「……あぁ、頑張ってみるよ」
私がエージさんに出会えたように。龍也くんにもきっと、救ってくれる人が現れるはず。
「ここでいいよ」
もし家に兄がいたらちょっと大変なことになるし。家から見えない角のところで龍也くんに言った。
「じゃあ、な」
「……うん」
龍也くんは、確かに私の初恋の人。初めて、恋愛を教えてくれた人。
「ありがとう」
「こちらこそ」
私は龍也くんに手を差し出した。龍也くんはそっとその手を握る。最初で最後の握手。龍也くんの手は少し熱くて。私からは感謝の気持ちが溢れた。
そしてそっと手を離す。右手が急激に冷えた気がした。
「私、行くね」
「あぁ」
私は龍也くんの元を離れて、家に向かって歩き出す。少し離れてからそっと振り向くと、龍也くんはしゃがみ込んで泣いていた。
ごめんね、龍也くん。ありがとう、龍也くん。私やっと、過去を乗り越えられた気がするよ。
***
次の日。
「ハル、おはよ」
教室に行くと、莉奈が声をかけてきた。
「あ、莉奈おはよー」
「屋上行こ」
そう言って、莉奈は私が逃げられないように腕を掴んで歩き出す。そんなことしなくてもついて行くのにと思ったけれど怖かったから言わなかった。屋上に着くと間髪入れずに莉奈は口を開いた。
「昨日、大丈夫だった?」
「………!」
莉奈は、私の過去を知っているから、なんだかんだ心配してくれていたのだろう。もう、本当にツンデレなんだからっ。
「うん、まぁエージさんに会ったけど」
「はっ……?」
「私エージさんのこと、傷つけちゃったかもしれない」
莉奈は深刻そうな顔をして、そして。
「……だから昨日あんなに荒れてたんだ」
「え……?」
「昨日ね、律に呼ばれたからスタジオ行ったの。そしたらエージさんが帰ってきて、手もつけられないほど暴れて……」
「……っ」
「ハルと何かあったのか、って律が聞いたらエージさん、テメェには関係ねぇ、って」
エージさん……絶対絶対私のせいだよね……?
「昨日、私が律に呼ばれたのはね、これのためなの」
莉奈はあるものを差し出した。『EA』の、ライブのチケット……。
「ハルに直接渡しても来るかわかんねぇから、莉奈ちゃんが引っ張ってでも連れて来てって」
「………」
「エージさんが押さえたんだよ、一番いい席」
「………」
「あんたが何考えてんのかわかんないけど、思ってる以上に大事にされてんじゃない?」
「…………」
「ま、行くも行かないもあんたの自由だから」
莉奈は私の右手にチケットを握らせて屋上を出て行った。
私は一人になった屋上で、エージさんとのことを思い出した。エージさんに恋をしても、絶対に叶わないと思った。本当に遠い世界の人だと思ってたから。でも、エージさんにはエージさんの傷があって。そばにいたいと思った。エージさんが私といてもいいって言ってくれるなら、喜んでそばにいたいと思った。どこから、おかしくなったんだろう。……あぁ、そうか。今気付いた。
私は龍也くんの時もどこで間違ったんだろう、どこからおかしくなったんだろうって過去を責めるばかりで『今』を、変える努力をしなかったんだ。
……もう一度だけ、頑張れるかな、私。やっぱり私、エージさんのことが好きでたまらないから。
そして、ライブ当日。私は会場に来ていた。やっぱり『EA』は人気で、会場の周りは人で溢れかえっていた。
「ハル!」
呼ばれて振り返ると、莉奈がいた。
「よかった、ちゃんと来たんだ」
めずらしい莉奈の優しい笑顔に、自分が思っている以上に莉奈に心配をかけていたことを知った。
「うん、ごめんね、莉奈」
私がちょうどそう言った時だった。
「あの……」
そう声をかけられて振り向くと、小さくてものすごく可愛い女の子がいた。誰だろう。どこかで見たことある気が……
「律くんの妹さん、ですよね?」
「え……」
「あ、私!滝沢里依って言います!英司の妹です!」
「あ!里依ちゃん?!」
「はい!」
うわ、エージさんの妹絶対可愛いと思ってたけどここまで可愛いとは……!
「一回会ったことありますよね」
「たぶん……。でもあの時私いっぱいいっぱいで、里依ちゃんの顔見れなかったんです」
「はい、仕方ないですよ。私もクセ持ってるんで気持ちわかります」
あぁ、きっとこの娘ものすごくいい娘だ。雰囲気でわかる。
「あ、もしかして莉奈さんですか?はじめまして」
「はじめまして」
莉奈も柔らかく微笑んだからそう思ったんだろう。
それからいろいろと話して、同い年なんだからタメ口で話そうってことになった。短時間でこんなに仲良くなれるのって結構めずらしい。
「2人のことはよく聞いてたんだよ、英司兄ちゃんから」
「エージさんから……」
「うん、英司兄ちゃんが女の子の話するなんてかなりめずらしいからビックリしちゃった」
そう、なんだ。そうだよね、エージさんが話さなきゃ、里依ちゃんが私たちのことを知ってるわけないもんね。なんか嬉しいかも。エージさんの口から私の名前が出たことが。
「里依!」
遠くから里依ちゃんを呼ぶ声がして、そちらに目を向ける。
「総司兄ちゃん、ちょっと待って!」
里依ちゃんの言葉に、耳を疑った。え、今『総司兄ちゃん』って言った……?
「ごめんね、もう行かなきゃ」
「え、あ、里依ちゃん、あの人って……」
私がそう言うと、里依ちゃんは少し顔を曇らせた。
「……ハルちゃん、やっぱり知ってるんだ。総司兄ちゃんと英司兄ちゃん、仲悪いこと」
「うん、まぁ……」
「……総司兄ちゃん、何するつもりなんだろう。急にライブ見に行くなんて」
「……」
「また英司兄ちゃんのこと傷つけるのかな」
里依ちゃんは、どんな気持ちなんだろうと思った。たぶん里依ちゃんはエージさんが大好きで。この様子だと、お兄さんのことも好きだと思う。大好きな2人が仲悪いって、きっと辛いよね……
「それにね、あの人も一緒に行くって言ったの」
あの人、って誰だろう。そう思ってお兄さんのほうを見ると、女の人が立っていた。遠くて人も多いからあまりよく見えないけれど、綺麗な人だと思う。
「あの人、英司兄ちゃんのこと傷つけるから嫌いだよ……」
ふと思い出した。エージさんが言っていたことを。『初めて本気で惚れた女は、気づけば兄貴の婚約者だった』って。もしかして……。
「ねぇ、里依ちゃん。あの人って、お兄さんの婚約者……?」
「……うん、そうだよ」
あの人なんだ。エージさんが、『初めて本気で惚れた女』。
その時、お兄さんがもう一度里依ちゃんを呼んで里依ちゃんはごめんね、と言って走って行った。
「エージさん、お兄さんと仲悪いの?」
「……うん、お兄さんの横に立ってる女の人、エージさんの初恋の人なんだって」
「え……」
莉奈は、驚いたように女の人を見た。……エージさん、お兄さんが今どこにいるかも知らないって言ってた。もしお兄さんがライブを見に来てるって知ったら、どう思うんだろう。……て、私が心配することじゃないのかな。私はエージさんにとって何でもない存在なのかもしれないし。
「そろそろ入ろっか」
「……うん」
私と莉奈は人をかき分けるように進んだ。どうしよう、今さら緊張してきた。エージさんの姿を見るのは久しぶりだな。エージさん、さらにカッコよくなってたらどうしよう。 私、もっとエージさんのこと好きになっちゃうかも。もう叶わないかも知れないのに。
席は、さっき別れたばかりの里依ちゃんの隣だった。私たちの分と一緒にエージさんが押さえたらしい。お兄さんたちは後ろのほうにいた。
「ねぇ、ライブ終わった後打ち上げ行く?」
「打ち上げ、あるんだ……」
「うん。律くんがハルちゃん無理やり連れて行くって言ってたよ?」
打ち上げ、か……。
「私行ってもいいのかな」
「うん、英司兄ちゃんも喜ぶよ」
里依ちゃんがそう言った瞬間、照明が消えてエージさんの甘い歌声が聞こえた。その声に、会場にいる全員がうっとりする。エージさんの歌声はスタジオで何度も聞いたことがあるけれど、ライブ会場で聞く声は迫力がすごくて。私はその歌声に圧倒されていた。そして久しぶりに聞くエージさんの声に、涙が溢れた。
そして次の瞬間、照明がついた。あちこちから歓声が上がる。真ん中の席に座る私の、ちょうど直線上にいるエージさんは綺麗だった。色っぽい声、マイクに絡む指、首筋を流れる汗、細められた目。エージさんを形作るすべてが、綺麗だと思った。
そして私はやっぱり。エージさんのことが、大好きなんだと思った。久しぶりに見たエージさんに、久しぶりに聞いたエージさんの声に、涙が止まらない。私は周りが興奮して立っている中で一人、座り込んで泣いていた。ライブが終わるまでずっと。
***
「終わっちゃったね」
「うん……」
エージさんの姿、ちゃんと目に焼き付けたかったのに。涙でよく見えなかった。ライブが終わって1時間ほど経った時。里依ちゃんの携帯に電話が入った。
「楓さんが迎えに来てくれるって」
打ち上げはスタジオであるらしい。……どうしよう。私行っていいの?エージさんももちろんいるよね?……怖いよ。またエージさんに会って、傷つくのが……。
その時だった。後ろから急に右手を引っ張られ、振り向かされる。そこにいた人を見た瞬間、私は呼吸の仕方を忘れた気がした。
「はる、の……」
その人も、かなり驚いている様子で。いつも眠そうな目が、大きく見開かれていた。
「英司!」
彼の後ろから楓さんが歩いて来るのが見えた。
「楓、悪ぃけどそいつら連れて先にスタジオ行っとけ」
エージさんが私の腕を掴んだまま言う。楓さんは素直に従って、2人を車に乗せて去って行った。エージさんと2人きりになって、刺すような視線を感じる。2人になったってことは、私に話があるってことだよね……?
何を言われるんだろう、と身構えた……のに。彼が発した言葉は、信じられないものだった。
「ねみぃ」
「……は?」
急いでエージさんを見れば、いつもの眠そうな目。ななな……!ここでそれはないんじゃない……?!だって仮にも、久しぶりの再会なわけで!しかも前会った時、もうそばにいなくていい、的なことを言われたわけで!
「……なぁ」
「なんですか!」
「お前、龍也とは別れろよ」
「……はぁ?」
またわけわかんねーこと言い出したよ。
「……別れる以前の問題なんですけど」
「あ?別れらんねぇのか?」
「いや、別れるも何も付き合ってないんですけど」
「……」
「……」
「……」
「……」
いきなり、エージさんが頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「んっだよあの野郎……」
とか言いながら。
「え、どういう……」
「柄にもなく焦っちまったじゃねーか!浮気されたのかと思った!」
「……」
「……」
…………え?
「あの、エージさん。まったく話が読めないんですけど……」
「だからよー、俺はお前と付き合ってるって思ってたんだよ。なのにお前、あのファミレスで『私はエージさんの何?』とか聞いてきてよー」
「……」
「何言ってんだコイツとか思ってたらお前急に走って逃げるしよー」
「……」
「お前意外と足はぇんだよ、俺もう二十歳越えてんだぞ、二十歳からの体力の衰え考えてもっと遅く走るとかの配慮ねぇのかよ」
「……」
え、ちょ、待って、それって……
「私エージさんと付き合ってるんですか?!」
「あ?お前俺の女じゃねーのかよ」
え!聞いてないんですけど、まったく知らないんですけど!
「あんだよ、キスしたじゃねーか、つーかヤッただろーが」
「でででも……!」
「お前、俺が好きでもない女とそんなことするような男だと思ってんのか?」
「え、でも付き合ってとかそういうこと言われてないし……」
「……」
「……」
「……俺と付き合え」
えー、今?!微妙なんですけど、すっごい微妙なんですけど?!
「……悪かったよ、冷たくして」
「……」
「まぁ、ライブ前で気が張ってたっつーのもあるんだけどよ」
「……」
「俺、お前を勢いに任せて抱いたこと後悔した」
「……エージさん……」
「お前、初めてだったのに。もっと大事にできたんじゃねーか、もっと優しくできたんじゃねーか、お前に無理させちまったんじゃねーか、そういうこと考えたらわけわかんなくなって」
「……」
「お前に申し訳なくて、どんな態度取ったらいいかわかんなかった」
……知らなかった。エージさんがそんなに私のことを考えてくれていたなんて。全然、気付かなかった。
「……エージさん」
私はしゃがみ込むエージさんの隣に、しゃがみ込んだ。そして、エージさんの手を握った。
「……私も、エージさんに抱いてほしいって思ったんだよ」
「……っ」
「一つになりたい、って思ってたのはエージさんだけじゃない」
「……」
「それに私、幸せでした。エージさんに抱かれてる時」
気持ちよかったし……と、恥ずかしくなったから小さい声で言うと、エージさんの少し冷たい指が俯く私の頬に触れた。
「……気持ちよかったのか?」
そこを聞くわけ?今もっと重要なとこあったよね?
「俺も、すっげー気持ちよかったぞ」
そんな恥ずかしいこと、そんなキラキラした笑顔で言わないでもらえます?!
「なぁ、陽乃」
「……なんですか」
「俺、またお前のこと抱いていいか?」
「……っ」
「俺、またお前にキスしていいか?俺……またお前のそばにいてもいいか……?」
不安そうに言うエージさんに、また胸が痛くなった。そうだ、私。エージさんのことを傷つけたんだ。『そばにいる』って約束、破っちゃったんだ。
「……エージさんがそれを望んでくれるなら」
「……」
「私はいつまでも、エージさんのそばにいたいです」
そう言うと、痛いくらいに抱き締められた。久しぶりのエージさんの腕の中は、やっぱり最高に居心地がよくて。私はエージさんの香りに、鼓動に、腕の力強さに溺れた。
「……今度こそ約束破んじゃねーぞ」
そして、ライブの後。満点の星空の下。そんなロマンチックな状況で。私たちは、キスを交わした。