彼の瞳



 私はあの日からテスト勉強を始めて忙しかったのもあるし、エージさんから連絡が来ないのは覚悟していたからそんなに気にしていなかった。けれど、テストが終わった日。

『今日スタジオ来てくれる?』

 楓さんからそんなメールが来た。ライブまで会えないんだろうな、って思っていたから嬉しかった。エージさんに会える。二人きりじゃないし、キスもしてもらえないだろうけれど。エージさんと話せる。エージさんと関わりを持てる。それがすごく嬉しい。
 テストが終わって莉奈と学校を出ると、校門の前に楓さんの車が止まっていた。それに乗り込むと、久々の楓さんの王子スマイル。エージさんばかりに気を取られていたけれど、もちろん楓さんと翼さん、兄も大好きで。心が和むのを感じた。

「今日はどうしたんですか?」
「……英司が、荒れててさ」
「……エージさんが?」
「うん。だから、ハルちゃんにどうにかしてもらいたくて」

 どうしたんだろう、エージさん。この前会った時はすごく穏やかで優しかったのに。私は不安を覚えつつ、楓さんの運転する車でスタジオに向かった。

「おー、久しぶり、ハル、莉奈ちゃん」

 スタジオに着くと、兄が声をかけてきた。ここ2週間ほど兄は家に帰ってきていない。特にめずらしいことでもないから親は特に気にしていないけれど。

「兄、寂しいからたまには帰ってきてね」
「……!めずらしいな、ハルがそんなこと言うなんて」
「そう?」

 気にしていないフリをして、心の中では少し寂しかったのかもしれない。

「エージ、さんは……」
「あぁ、部屋にいる。……頼むわ」
「……うん」

 前にエージさんが荒れていた時は山村さんのことで悩んで私がスタジオに来なかった時だった。その時はエージさんが電話をくれて、会って、うまく行ったからよかったけれど。今回はそんなにうまく行くのだろうか。不安だけれど、頼まれた手前行くしかない。それに、エージさんにも会いたい。私はバナナを持って、エージさんの部屋に向かった。
 エージさんの部屋の前には脱ぎ散らかされた服はなかった。もうお手伝いさんが洗濯したのだろうか。そう思ってエージさんの部屋の扉を開けると……ソファに座っているエージさんと目が合った。

「あ、ご、ごめんなさい!寝てるのかと……」
「いや、どうした?」

 エージさんは想像していたのと違い、いつも通りだった。気付かないうちに入っていた肩の力が抜ける。安堵のため息を吐いてエージさんに歩み寄った。

「あの、バナナ!持ってきたんです。食べます?」
「ん?あぁ、食う」

 エージさんにバナナを手渡すと、エージさんの隣に座る。久しぶりのエージさんの香り。表情が緩むのを抑えられない。

「……実は、エージさんが荒れてるって聞いて、呼ばれて来たんです。それにエージさんに会いたかったし……」
「……余計なことしやがって」
「え?」

 低い声が聞こえてエージさんのほうを向くと、エージさんはバナナの皮をテーブルに放り投げた。さっき抜けたばかりの力が全身の筋肉を固まらせる。動けない私の耳にエージさんの舌打ちが届いた。

「俺、会えねぇって言ったよな?」
「……っ」
「1年に数回のライブだ。余計なことは考えたくねぇんだよ。帰れ。お前に構ってる暇はない」
「……ごめん、なさい……」
「……おい、泣くなって。……はる「泣いてません!」

 思わず大声を出してしまった。エージさんの体がビクッとしたのがわかる。けれど、ここで泣いたらエージさんに面倒臭いと思われる。大事なライブ前に会いに来ちゃって怒られたのに、さらに面倒臭いと思われてしまう。
 だから、私は下唇を噛んで涙を堪えた。悔しい。エージさんがライブを、『EA』をどんなに大事に思っているか少しとは言えわかっていながら、自分のことしか考えずにのうのうとここにやって来た自分を呪いたい。

「ごめんなさい。私帰ります。ライブ頑張ってくださいね!」

 私はそう言って、立ち上がった。最後に見えたエージさんは無表情だったけれど、私はちゃんと笑えていただろうか。急いでエージさんの部屋を出て、スタジオに戻った。
 スタジオでは、どうなったか気になっていたらしく、私が扉を開けるとみんなが私を見た。……ごめんなさい。私、役に立てなかった。荒れてるエージさんをどうにもできなかった。むしろ、更に荒れさせてしまった。

「あの……ごめんなさい」
「……」
「私、エージさんを更に怒らせちゃったみたいで……役に立てなくてごめ「ハルちゃん」

 涙を堪えて必死で言葉を紡ぐ私の言葉を遮ったのは楓さんだった。楓さんは立ち上がり私のそばに来るとそっと、私の唇を撫でた。

「血、出ちゃうよ」
「……っ」

 気付かない内に下唇をキツくキツく噛んでいたらしい。ハッとして力を抜くと口の中に少しだけ血の味が広がった。楓さんはふっと微笑んで私の頭を軽く撫でると、ふわっと包み込むように私を抱き締めた。そして子どもをあやすように、背中をポンと叩いた。

「ハルちゃん、よく頑張ったね。ありがとう」
「……」
「泣いていいよ」

 楓さんのその言葉で、堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。楓さんの腕の中は、少しのタバコと、楓さんの香水の香り。エージさんの甘い匂いとはまた違う、大人の匂いがした。楓さんは声を出さないように泣く私の手を握って、自分の脇腹の少し上に置いた。もっと寄りかかっていい。もっとしがみついていい。そういう意味だと思う。私は楓さんにしがみつくようにして泣いた。楓さんの抱き締める腕が、少しだけ強くなった気がした。
 それから私は莉奈と二人で歩いて帰った。翼さんがずっと車で送るって言ってくれていたけれどもう5時だし、5時に『EA』が全員揃っていなかったらきっとエージさんの機嫌がもっと悪くなるから。
 莉奈は、特に何も言わなかったけれど手を繋いでくれた。だから私たちは子どもみたいに手を繋いで歩いた。莉奈がいてくれてよかった。もしかしたら、楓さんと兄はこうなることを予想して莉奈も呼んだのかもしれないと思った。私が落ち込んだ時のために、莉奈のことも呼んでくれたのかもしれない。そうだとしたら、その優しさに感謝する。莉奈がいてくれなかったら私、自分の家にすら帰れなかったかも。家の前に着くと、莉奈はめずらしく微笑んだ。

「テスト終わったし、今日はゆっくり休んでまた明日頑張ろ」
「うん」
「一人で泣くのが嫌なら、呼んで」
「……ありがと」

 莉奈は私の頭にポンと手をやると帰って行った。そうだよ。私にはエージさんしかいないわけじゃない。こんなにたくさんの人に支えてもらっている。だから、今日いっぱい泣いて明日は笑っていよう。次にエージさんに会う時には、笑っていられるように。
 『EA』のメンバーに出会って以来私の生活はスタジオで過ごすメンバーとの時間が全てになっていた。スタジオに行けばエージさんに会える。あまり家に帰ってこない兄に会える。翼さんに、楓さんに会える。大好きな、『EA』の音楽が聞ける。学校で少し嫌なことがあっても、それを思うと元気になれた。けれど、それがなくなったから。私の心はポッカリと大きな穴が空いたみたいだった。おまけに、昨日夜通し泣いたからか頭がフラフラする。悪いことって、なぜか立て続けに起こるもので。こんな真夏の暑い日に、グラウンドで体育があった。

「し、死ぬ……」
「ハル、あんた顔赤いよ?」

 熱あるんじゃない?と私の額に手をやった莉奈が触れた瞬間「バカ!」と叫んだ。そして私の腕を掴み引きずりながら先生のところに行き、

「このバカ熱あるんで保健室連れて行ってきます」

 と言った。そしてそのまま歩き出す。引きずられながら、私はぼんやり熱があるのか……と思った。そしてこんな時にも頭に浮かぶのはエージさんで、昨日あんなことがあったのにすごく会いたくなった。

「熱あることにも気付かないなんて、あんた正真正銘のバカだわ」
「ごめんね、莉奈」

 保健室のベッドに寝転ぶ私に莉奈の怒りはおさまらないようで。それは私を心配してくれてのことだから胸が痛くなる。

「わかってると思うけど。あんたにはエージさんだけじゃなくていっぱい支えてくれる人いるんだから。無理しちゃダメだよ?」
「うん……ありがと」

 莉奈は私の返事を聞くと授業に戻って行った。一人になった部屋。遠くのほうで授業の音が聞こえて、その音に耳を澄ます。スタジオだけじゃなく、ここも私にとってはもちろん生活の一部で。エージさんに、『EA』のメンバーに依存しすぎるのはよくないと思う。こっちもこっちで、大事にしなくちゃ。そんなことを考えていると次第に睡魔が襲ってきて。私はいつの間にか、眠りに就いていた。
 夢を見た。エージさんが出てきた。私はどれだけエージさんのことを考えているんだ、って泣きたくなったけれど。夢の中のエージさんはすごく優しくていつもの、少し眠そうなエージさんだった。

「エージさん……?」
「ん?」
「好き、大好きなんです……」
「……あぁ、わかってるよ」

 私はギュッとエージさんに抱き付いた。そして本当に、この人が大好きだと思った。匂いも、腕も、抱き締めてくれる力も。こんなに好きになれる人がいるのかって思うくらい大好き。

「冷たくされるのは、辛いです……。ライブ前で気が立ってるのはわかるし、私もわがままだけど……たまに会えた時くらいは優しくして……」
「……あぁ」

 夢の中だからって好き放題言ってしまっている。だけどいいよね?現実では絶対に言えないから、夢の中でぐらいこの気持ちをぶつけても。夢の中のエージさんは、私の言葉を穏やかに聞いてくれた。そして私の目から涙が零れると、その涙を親指で拭って優しく微笑んだ。

「冷たくしてごめん。俺はちゃんと陽乃のこと好きだから」

 だから安心してゆっくり休め、エージさんがそう言って頭を撫でてくれて。夢の中の私も眠くなってきて、そのまま深い眠りに就いたのだった。
 帰りはこっちが動揺するくらい心配している兄に車で迎えに来てもらった。兄には莉奈が連絡したらしい。ただ報告するつもりで『ハルが熱出した』ってメールを送ったら、急いで飛んできたようだ。そして莉奈を見つけるなり

「ハルは?!容態は?!どこが悪い?!俺のせいか?!」

 と、騒ぎまくったらしい。兄は、昔から私の体のことになるとすごく敏感だ。きっと両親よりも、そして私自身よりも私の体をわかっていると思う。わざわざ迎えに来てくれなくてよかったのに、と思った。兄も含めて、『EA』のメンバーに依存するのをやめようって思っていたから。けれど目が覚めた時に兄がいたことにすごく安心したのは確かで、依存はなかなかやめられそうにないと思った。兄は、エージさんのことは何も言わなかった。エージさんに殴られたような跡もなかったから、エージさんはもう荒れていないのかもしれない。
 兄は私を家に送り届けると、家にいたお母さんと一言二言交わしてまた家を出て行った。家に帰って携帯を見ると、楓さんから体調を心配するメールが来ていた。けれどもちろん、エージさんからのメールはなかった。

 私はそれから3日ほど寝込んでしまった。兄は相変わらず家に帰って来なかったけれど、毎日電話してきた。一度だけ、電話の向こうからかすかにエージさんの声が聞こえてきた。その声は特に荒れているとかそんな感じではなくて、いつものエージさんの声だった。あんなことがあったのにエージさんがすごく恋しくて。会いたい会いたいと思っている時に家に来たのは、まったく予想だにしていなかった人物だった。
 その日はお母さんが夜まで仕事で家に一人だった。熱も下がって、明日から学校に行こうかなと考えていた時。ピンポーン、と家のチャイムが鳴った。私は特に何も思わず出て、そして訪ねてきた人の顔を見た瞬間ドアを閉めた。

「ちょ、ハル……!頼むから開けろ……!」

 龍也、くんがなんで……?龍也くんは初めはガチャガチャとドアを開けようとしていたけれど、その内諦めたのか静かになった。

「……ハル。そのままでいいから話聞いて」
「……」
「……今更、言い訳するつもりはない。俺がハルを傷付けたのは事実だから。だけど、これだけは信じてほしい。俺は本気でハルが好きだった。……今も、好きだ」

 龍也くんの声は、静かで。けれど、強い意志を持っていた。……変わらない。昔と何も変わってない。静かだけど、強くて。いつもあまり話さないのに、龍也くんの言葉には影響力があった。私の心を揺るがす、何かが。

「今更過去を蒸し返すようなことしてごめん。だけど、このままじゃいけないって思ったんだ。このままじゃ……ハルは過去を、俺はハルをいつまでも忘れられない」
「……」
「でもそれも俺のわがままだよな。……この前、久しぶりに会えて嬉しかった」

 じゃあ、と言って龍也くんが去ろうとする。私は思わず玄関を開けていた。龍也くんのまっすぐな目が私に突き刺さる。その目は驚きに満ちていた……けれど。私自身も自分の行動に驚いている。どうして開けてしまったのだろう。わからないけれど、きっと。私の本能が龍也くんと話さなきゃ、って思ったんだ。……それなら。

「ごめん、せっかく来てくれたのに」
「……いや」
「……入って。今、兄いないから」
「うん、ありがとう」

 龍也くんはそう言ってかすかに微笑んだ。あぁ、私はこの笑顔が大好きだったんだ。ほんの少しだけ、よく見ないとわからないくらい少しだけ笑うの。けれどその笑顔はすごく優しくて。クールな普段の龍也くんからは考えられないくらい、穏やかさに満ちているんだ。

「変わってねぇな、家ん中」

 うちのリビングに龍也くんが座っているのは久しぶりで、何だか不思議な感じがする。

「うん、そうかも」

 まさか、またこんな風に普通に話せるとは思っていなかった。龍也くんと話すのは怖いと思っていたけれど、意外と平気だった。

「熱は下がったのか?」
「え?あ、うん……どうして知ってるの?」
「白井に聞いた」

 白井というのは私と同じクラスの男子で、中学も同じだから龍也くんのことを知っている。

「高校どうなの?」
「んー、相変わらず。あんま行ってねぇ」
「だけど成績はトップなんでしょ?」
「……まぁな」
「ふふ、龍也くんらしいね」

 龍也くんは、県で一番の進学校に通っている。中学の時からあまり学校に来ていなくて、そのくせ成績は一番だった。成績がいいもんだから先生たちは龍也くんに注意もできなくて、結構やりたい放題してたみたい。

「あの、さ」

 龍也くんは少し気まずそうに話し出した。だからてっきり過去のことかと思ったのに、龍也くんの口から出たのは意外な言葉だった。

「あの、この前一緒にいた人と付き合ってんの?」
「は、あ……え?」
「いや、あの……付き合ってんの?」

 エージさん。ここでまさかのエージさんの話題。えっと、エージさんと私は、

「う……う?」

 思わず首を傾げてしまった。龍也くんは不思議そうに私を見ている。エージさんと……付き合っているのか?お互いの気持ちはわかっている。キスもしたし、エッチもした。……けれど、付き合おうとかそういうこと。言ってないし、言われてないよね……?なにこの微妙な関係………!これってどうなの?!付き合ってるの?!

「付き合って、んの……?」
「いや、ごめん。わかんねぇ」

 そりゃそうだよ!龍也くんが知ってるわけないじゃん!私なんで龍也くんに聞いてんの?!そして私が明らかにおかしいのに申し訳なさそうに謝ってくれる龍也くん。相変わらず優しいっていうかお人好しっていうか……。

「ごめん……私もわかんないや」
「微妙なの?」
「うん、微妙なの」

 そっか、と龍也くんは言った。その懐かしい空気に、私は自然と口を開いていた。

「……掴めないの」
「……」
「やっと掴めたと思ったのに、簡単に離れていく。私なんかには、一生掴めないと思うくらい」
「……そんなもんなんだよ、きっと」

 龍也くんは、少し笑いながら言った。どこか自嘲するみたいな口調だった。

「俺も、ずっとハルのことが好きで。やっと手に入れたと思ったら簡単に傷つけて、簡単に離してしまった」
「……っ」
「傷つけるのは簡単だけど、傷を癒やすのは死ぬほど難しい。大切なものほど、大切にするのは難しいんだ」
「龍也くん……」
「ずっと、後悔してた。今なら、本当に大切なものを大切にできると思う。俺の大切なものはハルだけだよ」
「……っ」

 龍也くんの瞳は優しくて、だけど強くて。私が過去に確かに、すごく大好きだった瞳。

「付き合ってほしいって言ってるわけじゃない。友達に、戻ってほしい。どんな形でもいいからハルのそばにいたい」

 龍也くんの瞳はまっすぐ、私しか見ていなくて。少しだけ、彼の瞳を思い出した。

「傷つけた分、取り戻すチャンスが欲しい」
「……龍也くん」

 私が名前を呼ぶと、龍也くんの体がピクリと動いた。……緊張しているのが手に取るようにわかる。

「私、確かにすごく傷ついたよ。しばらく寝込んだし。兄も、たぶん龍也くんのことすごく嫌いだと思う。だけどね、傷ついたのは私だけじゃない。龍也くんもすごく傷ついたんでしょ?」

 だって龍也くん。再会してから、私をすごく悲しそうな瞳で見るんだ。まっすぐな彼の瞳が、たまに揺れるから。

「龍也くんは反省して、悩んで……申し訳ないって思ってくれたんでしょ?」

 龍也くんは深く頷く。私はそれを見て微笑んだ。

「じゃぁ、仲直りしようよ」
「……ハル……」
「私もいっぱい、傷つけてごめんね」

 私がそう言うと、龍也くんはスッと立ち上がった。そして私に腕を伸ばしかけて、やめた。

「危ね……抱き締めかけた」

 そしてボソリと呟いた。私は伸ばされたままの手を取った。

「握手しよ。仲直りの握手」

 そう言うと、龍也くんは嬉しそうに笑った。
 きっと、これはただの喧嘩だったの。仲直りがなかなかできなかっただけの、ただの喧嘩。きっとここから新しい関係が作れる。龍也くんとなら、いい友達になれる。そう、思った。
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