皇帝の本音と女のプライド



 スタジオに戻ると、さっきまでいなかった翼さんがいた。もちろん、莉奈や山村さんとはかなりの距離を開けて。

「あ、ハル」

 私を見つけて翼さんはニコリと笑った。

「英司がハル置いてくるなんて珍しいなぁ」

 エージさんは、さっきのことを皆に言わなかったみたいだ。私はエージさん専用のソファに座っているエージさんに近近付いた。……そして。

「エージさん、ありがとうございます」

 そう言った。エージさんは一瞬驚いたような顔をして、けれどすぐに優しい笑顔を見せてくれた。そして立ち上がって、私の頭を撫でる。嬉しいけれど近くて恥ずかしい。エージさんはひたすらニコニコしながら私の頭を撫でる、そして不意に顔を近付けてきた。
え……!き、キスされる!そう思った私はなぜか反射的に目を閉じてしまっていた。……ち、違う!こんなところでキスなんかされたら!
 けれど私の心の中など知る由も無いエージさんは止まらない。そして私も、エージさんの綺麗な顔に見惚れてしまっていた。そのエージさんの綺麗な顔が、誰かの手によって見えなくなる。

「おい、英司。兄貴の目の前でハルに手出すつもりか」

 横からそんな低い声が聞こえてきた。我に返ってエージさんから離れると、兄がエージさんの顔を思い切り掴んでいた。あ、危ない……。山村さんの目の前なんかでキスされたら……考えるだけでも恐ろしい。

「ギャー!!」

 突然兄が叫んだ。そしてエージさんから手を離し、その手を掴んでいた。

「……邪魔するからだ」

 エージさんはそう言うと、またソファに座りなおした。どうやら、エージさんは兄の指を思い切り噛んだらしい。後から見たら、兄の指にはエージさんの歯型がくっきり浮かんでいた。その時だった。

「あの」

 とうとう、あの人が口を開いた。私が恐れていた、あの人が。

「エージさんとハルちゃんって、どういう関係なんですかぁ?」

 その場の空気が凍ったのを感じた。この人は茜さん並に、もしくは茜さん以上に空気が読めないらしい。誰もが口を開けない中で、声を出したのは皇帝エージ様だった。

「な」

 ……。『な』?聞き間違いだろうか。うん、聞き間違いだよね!皆がそんな雰囲気になる。けれどエージ様は立ち上がり、そしてフラフラと歩きだした。彼の向った先にいたのは

「な、なに……?」

 哀れ、翼さんだった。

「……お前」

 エージ様の声は低かった。長すぎる間に、皆ゴクリと唾を飲み込んでエージ様の次の言葉を待つ。

「なんで俺のバナナ勝手に食ってんだ」

 翼さんは持っていたバナナを床にポトリと落とした。そして

「新しく買ってくる!」

 そう言って目にも止まらぬ速さでスタジオを出て行った。な、なにコレ……!!山村さんの質問はどこに行ったの?!エージさん、なんて答えんのかな?ってちょっとだけドキドキした時間を返してよ!楓さんと兄はこんなことに慣れているらしく、爆笑していた。そんな中、やっぱり空気が読めないKY女王はまた口を開いた。

「ねぇ、ハルちゃん。どうなの?」

 エージさんに聞いても無駄だと思ったらしく、質問の対象を私に変えて。どんな関係って聞かれても。一番それが知りたいのは私だ。『EA』のエージさんは私の憧れの人。『滝沢英司』は私の大好きな人。エージさんは私にキスをして、それから

「目、覚まし……?」

 その言葉は弱弱しく、そして疑問形だった。

「目覚まし?」

 案の定、KY女王は聞き返してきた。

「うん、目覚まし……」

 そう私が返したのと、

「つーかお前誰だ」

 エージさんが口を開いたのはほぼ同時だった。一気に空気が張り詰める。

「いつ入った」
「やだもうエージさんったらぁ。初めからいましたよ〜」
「知らねぇ」

 エージさんは今まで、山村さんの存在に気づいてなかったらしい。しっかりしよう、エージさん……!!

「私ハルちゃんの友達で、来ていいって言われたんですよ」
「誰に」
「リツさんに」

 エージさんは勢いよく兄を睨んで、そして兄の方へ向った。兄は動かなくて。動いたのは、私のほうだった。

「エージさん!!」

 エージさんの右腕に抱きつくような体勢で私はエージさんを止めた。だってエージさんの右手、拳が握られてたから……。

「離せ」

 エージさんの声は低くて、私の体は恐怖で竦んだ。けれど、このままじゃ兄が殴られる。私のせいで、何も悪くない兄が……!!

「ハル、離せ」

 聞こえたのは、兄の優しい声だった。兄は、殴られていいの?私のために。だから、逃げようとしなかったの……?

「離せ!!」

 エージさんの怒鳴り声にも、私は負けなかった。そして

「私が兄に頼んだんです!!」

 そう叫んだ。

「ハルちゃん!」

 楓さんの焦ったような声が聞こえた。けれど、私は止めなかった。兄を守らなくちゃ、そんな気持ちでいっぱいで。

「私が、友達連れて行っていきたいって兄に頼んだんです!無理やり言ったんです!」

 エージさんは動かなかった。どんな顔をしているかなんて、見るのも怖い。

「だから兄は悪くないんです!私が悪いんです!殴るなら私を殴ってください!」

 エージさんの体がピクリと動いた。そして

「なぁ」

 その声は弱弱しかった。皇帝エージ様の声じゃなかった。

「お前のさっきの、…コレが原因か…?」

 私の体が、ビクリと跳ねた。それは肯定を意味していて、エージさんにもそれがわかったみたいで。エージさんは私の体をギュッと抱き締めた。突然のことに私の頭は真っ白になる。けれど次の言葉で急に、現実へ引き戻される。

「……出て行け」

 低い声だった。さっきの『離せ』って言った時よりも、断然こっちのほうが低い声だった。エージさんは私を離すと、背を向けた。
 ……そうだよ、私は。エージさんの、『EA』の大切な場所に、山村さんを入れてしまった。エージさんが嫌がることなんて目に見えていたのに。エージさんに嫌われるかも、ってわかっていたのに。私が弱いせいでエージさんを傷つけてしまうって、知っていたのに……。
 私は下を向いて、涙を堪えて、そして。

「ごめんなさい」

 一言言って、スタジオを出た。

「ハルちゃん!!」

 楓さんの声が聞こえた。けれど、私の大好きな低くて甘い声は聞こえなかった……。
 次の日

「おはよ、ハル」
「あ、莉奈……」

 莉奈はいつもより優しかった。それは私の目が、自分で思っている以上に腫れているからかもしれない。

「昨日律帰ってこなかったの?」
「うん。最近忙しいらしくて、あんま帰ってきてないんだ」
「そう」

 昨日の、私が帰った後のことを聞きたかった。けれど怖くて聞けなかった。

「ねぇ、ハル」
「ん?」
「もうスタジオ行かないの?」
「……うん。行きたくても、行けないから」

 もうエージさんには会えない。エージさんにどんな顔をして会えばいいのかわからない。

「私も……行くのやめようかな」
「え?」

 私はビックリして莉奈を見た。なんで?もしかして、私のために……?

「ハルのためじゃない。自分のためなの」
「……っ」

 莉奈がこんなに弱々しく笑うのを、私は初めて見た。莉奈が何かに悩んでること、わかってたのに。私はその悩みを聞こうとしなかった。莉奈に対しての罪悪感でいっぱいになる。私、自分のことしか考えてなかったね……。

「山村さんも行くみたいだし。私あの人と同じ空間にいたくない」

 莉奈は笑顔で、だけど忌々しそうに言った。

「ねぇ、莉奈……」
「んー?」
「楓さんのこと、好きなの?」

 莉奈は一瞬ビクッと強張って、けれどすぐに微笑んだ。突然の質問、ビックリしたよね。だけど逃げないで、莉奈。私ももう、逃げないから。

「1時間目サボろっか」

 莉奈はそう言って立ち上がった。私はもちろん頷いた。屋上に行くと、心地よい風が吹いていた。知らない間に季節は夏になっていたらしい。

「ねぇ、ハルってさ」
「……?」
「エージさんとキスした?」
「えっ……!」

 真っ赤になる私を見て、莉奈は意地悪に笑った。

「ハル、いいよね。好きな人に気に入られててさ」
「……」

 莉奈も気づいてたんだね。私がエージさんを好きなこと。……私どれだけわかりやすいんだろう。でも。

「でも私、もう嫌われちゃったから」
「そうかな?あんたが帰った後、いつも以上に機嫌悪かったけど」
「それは怒ってるんだよ。勝手に山村さん入れたから」
「……エージさんはハルのこと嫌いになったりしないと思うけどな」
「なんでそう思うの?」
「女の勘」
「何それ……」

 兄もそんなこと言ってたけど、結局こうなってんじゃん。よくわからない。

「私は……好きな人に、嫌われてる」

 莉奈はそう言って悲しげに微笑んだ。何があったのかはわからない。けれど莉奈が相当傷ついてることはわかった。

「なん、で……?」
「私の好きな人はわかるんだよね?」
「楓さん……?」
「うん、楓。実はね、初めてスタジオに行った日。あの日に出会ったんじゃないの」
「写真撮ってもらったって……」
「うん、だけどね、それだけじゃないの」
「え……?」
「私前に、楓に抱かれたんだ」
「……っ」

 あの日。莉奈は楓さんに『処女じゃない』と言った。その理由がようやくわかった。

「楓さ、私のこと覚えてなかった。処女だったからすごく優しくしてくれたと思ったのに。あの優しさ、偽物だった……」
「莉奈……」

 処女を捧げた好きな人に、『処女?』って聞かれるの、どれだけ辛かっただろう。今まで莉奈の話を聞かなかった自分を殴ってやりたくなった。

「私バカだからさ、楓にとって都合のいい女になっちゃった。楓の気持ちが私に向かないことなんてわかりきってるのに……」

 莉奈は泣かなかった。今にも泣きそうなのに、莉奈は私の前で泣かなかった。

「私、ハルになりたい」
「え……?」
「楓言ってたんだ。『ハルちゃんには絶対手出さない。あんなに純粋な娘、俺の汚い欲の犠牲にしちゃいけない。大事にしたい』って」
「……っ」
「楓はもしかしたら、ハルのことが好きなのかもしれないね」

 それはないと思う。楓さんが私に優しいのは『妹』みたいに思っているからだ。私は兄とエージさんを、同じ目で見たりしない。兄も大好きだけれど、男の人として好きなのはエージさんだけだから。
 莉奈もきっとわかってるよね?楓さんのその言葉が、私を『女』として見ての言葉じゃないって。けれど、辛い気持ちをどうしたらいいのかわからないんでしょう?だからそうやって、自分を無理やり納得させようとしてるんでしょう?

「ごめんね、私。ハルに嫉妬してる」

 そう言う莉奈を見て、私は泣いた。莉奈はどうしても人前で泣けないから、私が代わりに泣いた。そんな私を見て、莉奈は「バカだなぁ」と笑った。でも私の頭を撫でてくれた。

「お互い幸せになれるように、頑張ろうね」

 莉奈はそう言った。それが、『楓さんと幸せになる』か、『楓さん以外の人と幸せになる』か。それはわからなかった。

***

 その日の夜、久しぶりに兄が家に帰ってきた。その時私は自分の部屋でぼんやりとしながらエージさんのことを考えていて。

「ハル、いるか?」

 扉の向こうから兄の声が聞こえてきたのに驚いた。

「兄……?」
「あぁ。入っていいか?」
「うん……」

 私は体を起こして、兄を迎えた。兄は私の隣に座った。……そして。

「今日、なんで来なかった?」
「……っ」

 いきなり本題に入った。私が答えないことを予測していたのだろう。兄は私の返事を聞こうともせず、続けた。

「英司が荒れてる」
「え……?」

 エージさんが荒れてる……?予想もしていなかった言葉に戸惑う。兄は真っ直ぐに私を見ていた。

「なんで……?」
「今日お前が来ないからあの山村ってのが英司を起こしに行った」
「……っ」
「そしたら『なんで陽乃じゃねぇんだテメェ誰だ』って暴れやがった」
「……」
「危険だからって山村についていった楓が殴られた」
「え……」
「英司はお前に怒ってんじゃねぇ。」
「でも、出て行けって……!」
「アイツ、妹いんだけど。妹もお前と同じ病気持ってんだ」
「……!」
「だから苦しむお前をもう見たくなかったんだ。山村がいたらお前またあぁなるかも知れねぇだろ」

 だから『出て行け』って言ったの……?エージさん、私のために……?

「本当は山村に『出て行け』って言いたかったんだろ。だけど山村に言ったら後からお前が何されるかわかんねぇ。だからお前に言ったんだ」

 エージさん……、そんなに考えてくれていたんだ……。

「俺言っただろ?英司はお前を嫌わねぇし、お前を傷つけたりしない。お前は傷ついただろうけど、結果的に見たら、お前は英司に助けられてる」
「……」
「俺が英司の立場でもあぁした。だからハル、英司に連絡してやってくれ」
「…兄……」
「もう殴られんの勘弁」

 兄はそう言って苦笑した。エージさんが、あのエージさんが私のためにそこまで考えてくれてるなんて。
 兄は励ますように私の頭にポンと手を置いて、部屋を出て行った。私は携帯を手に取る。怖いけど……怖すぎるけど。今電話しなくちゃ、兄や楓さんにも申し訳ない気がして。頑張れ、私頑張れ。そう自分を必死で奮い立たせていたら。いきなり手の中の携帯が震えだした。

「ぎゃっ!」

 驚きすぎて携帯を落としかけてなんとか持ち直す。けれど画面に映った名前を見て、結局携帯を落とした。

「エージ、さん……」

 どうしよう。どうしよう。私は携帯を拾うと勇気を出して、通話ボタンを押した。心臓が痛いほどに鳴る。

「……はい」
『……』

 かけてきたくせに無言攻撃?!よーし、そっちがその気なら……

『陽乃か?』
「……っ」

 エージさんだ。エージさんの声だ。私の大好きなエージさんの声だ。

「エージ、さ……」
『泣いてんのか?』
「うっ……うぇ……」
『会いに来い』
「……っ」
『ずっと待ってんだよ』
「エージさ……っ」
『来ねぇと許さねぇぞ』

 私は部屋を飛び出した。恐れることなんて何もなかった。エージさんは優しかった。こんな私を、守ってくれた。階段を駆け下りて、兄を探す。玄関に立つ兄を見つけて、私は口を開いた。

「兄、私……!」

 エージさんに会ってくる、って言葉を飲み込んだ。だって、だって。

「え、じさ……っ」
「会いに来んの遅ぇから来た」

 でも、でもエージさん。電話切ったのさっきだよ?初めから、私に会いに来てくれるつもりだったの……?

「おいで」
「エージさん……!」

 エージさんが両手を広げるから。私は迷わずその腕の中に飛び込んだ。やっぱり私は、この人が大好き。匂いも温もりも腕も声も、全部。

「陽乃……」

 耳元で甘い声が聞こえた。好き好き大好き。好きすぎておかしくなりそう。

「律、ちょっと借りるわ」

 エージさんがそう言って、私の手を引いた。そして玄関を出る。兄はものすごく、優しい顔で笑っていた。

***

 家の近くの公園に来て、エージさんは立ち止まった。そして、突然振り返った。

「ギャッ!」

 私は思いっきりエージさんの胸に鼻をぶつけた。

「い、いひゃい……」

 鼻を押さえる私を、エージさんは無表情で見つめる。……そして。

「アイツに何かされたか」

 アイツ、って……?首を傾げる私に、エージさんは若干イラついたみたい。

「アイツだよ!昨日からスタジオ来てるアイツ!空気読めねぇアイツ!」

 あぁ、山村さんね……。それよりもエージさん『空気読む』って意味知ってるんだ……。

「山村さんには特に何も……」

 今日会ってないしなぁ。

「昨日はごめん。傷つけるようなこと言って」

 そう言ってエージさんは頭を下げた。あの、エージさんが。それに焦った私は

「こ、皇帝が頭なんか下げちゃダメですよっ」

 なんて口走っていた。そして

「皇帝って誰のことだ」

 そんな低い声で自分の失言に気づいた。わ、私の馬鹿……!!エージさんはグイッと私に近寄って

「お前もそんな風に思ってんのか?」

 切なげにそう言った。エージさん、もしかして『皇帝』って呼ばれるの嫌なのかな?

「ご、ごめんなさ」
「まぁ、否定はしねぇ。自分でもそう思う」

 ……殴っていいですか。

「だからお前は、皇帝の言うこと聞け」
「……っ」

 エージさんはわざと私の耳元で言う。私がエージさんの声に弱いこと知ってるから。

「お前は俺から離れんじゃねぇよ。悪い思いはさせねぇ。世界一幸せにしてやる」
「……!」

 エージさん、それって、それって……!

「お前は質問したことすら忘れてたけど、答えてやるよ」
「……?」
「俺は、絶対お前を見つけてた。律の妹じゃなくて、ただのファンでもな」
「……っ」

 あぁ、私なんてこと忘れてたんだろう。こんなに大事なこと忘れちゃうなんて。

『もし私が律の妹じゃなくて、ただのファンでも、私を見つけてくれましたか?』

 あの日の私の質問、エージさんは覚えてくれてたんだね。

「根拠なんてねぇ。お前は律の妹だし、だからこうして出会えたのも否定できないからな。……だけどな、」

 エージさんは一呼吸置いて続けた。

「1日お前に会えねぇだけで、死ぬほど寂しい」
「……っ」
「だから絶対俺から離れんじゃねぇぞ。もし寂しすぎて死んだらお前も道連れにしてやるからな」

 こんな幸せあるんだろうか。エージさんが、あのエージさんが。私にこんなこと言ってくれるなんて。エージさんはいつの間にか、苦しいほどに私を抱きしめていて。

「そんなこと言ったらあたし、自惚れちゃいますよ」
「いいんじゃねぇの」

 その苦しささえ、愛しいと思った。

「調子にも乗っちゃうかも」
「ノリノリで行け」
「エージさん」
「あ?」
「私エージさんのこともっと好きになっちゃうかも」

 私のさり気ない告白は

「当たり前だろ。もっと夢中にさせてやるよ」

 そんな、皇帝エージ様らしい言葉で返された。そして

「チューさせろ」

 そう言ってエージさんは顔を近付けてくる。拒否する理由がない私はそっと目を閉じた。みんなの憧れ、エージさんのセクシーなぷっくりした唇。その唇が、今。私の唇にそっと重なった。
 それは、夏の始めに起こった出来事。嵐はまだ……始まったばかり。
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