04


「タオルと着替えここ置いとくからなー」
「っ、ひゃい!」

 磨りガラスの向こうから聞こえた声に慌てて体を隠した。浴槽に浸かっているから見えるはずもないのだけれど。


「帰りたく、ないです」

 私の言葉に目を丸くした高杉さんは、その後はーっと大袈裟なくらい深いため息を吐いた。そして宥めるようにポンポンと頭に手を置いた。

「女の子がそんなこと簡単に言っちゃダメだろ。送って行く」

 明らかに呆れられ拒絶されていることがわかって唇を噛む。私はまだ『そういう』対象ではないのだと、あからさまに言われているようで。私は高杉さんの腕を離しその場に立ち止まる。高杉さんは突然離れた私をおかしく思ったようで振り返った。

「帰りたくない、んです」
「あのな、前原……」
「お願いします、もっと高杉さんを知りたいんです」

 こうなればもはや意地だった。こんなわがまま言ったら高杉さんを困らせてしまう。そう思うのに止まらない。このまま帰ってしまったら、私はもう二度と勇気を出せない気がする。怖くなる。高杉さんに気持ちをぶつけることが。恐る恐る高杉さんを見上げれば、少し困った顔をしていた。けれどどうしても私のわがままにうんざりしているようには見えなくて。期待、してしまう。

「知りたいって、どういうこと」
「……」
「帰りたくないって、意味わかって言ってんの。ただ一緒にいてお茶してそのまま寝て、そういう意味だと思ってるならお前は男を舐めてる」

 低い声は、少しだけ怒っているように聞こえた。私は高杉さんを困らせて、怒らせている。けれど、わがままを嫌がられているわけではない。恋愛経験が少ない私には難解で、でも。

「私、前に言いました。高杉さんとならいつでもお願いします、って」
「……」

 私はこの気持ちを伝える術しか知らない。
 しばらく沈黙のまま見つめ合っていた。その間に何人の人が私たちの横を通り抜けていっただろう。この世界に何十億人も人がいる中で、私はこの人に出会って、この人に恋をして、この人と離れたくないと思っている。よく小説やドラマなどで出てくるありきたりな表現なのだろうけれど、私も同じようにそれを奇跡だと思うから。

「好きで、好きで。大好きで仕方ないんです。高杉さんが同じ気持ちじゃなくても、私……」
「いい。もういい」

 高杉さんは私の言葉を遮った。ぐっと息が詰まった。でも。高杉さんの手が私の手を包んで引っ張られた。私は彼の大きな背中を見つめて、そして、彼が私の願いを聞き入れてくれたことを悟った。

「あーもう、クソ……」
「高杉、さん……」
「今俺の顔見んな馬鹿」

 顔が見えなくても、耳が真っ赤だよ。嬉しくて愛しくて、私は笑うのではなく何故か泣きそうになった。
 そんなことがあって高杉さんの家にお邪魔したのはいいけれど、緊張で爆発しそうだった。数十分前の自分に問いたい。あなたにこの限られた空間で好きな人と二人きりになる、その覚悟があるのか、と。
 一度頭までお湯に浸かり頭を冷やそう(既にこの時点で間違っている気がするけれどそんなことにまで頭を使う余裕はない)とするけれど、当然体が火照っただけで頭は混乱したままだ。このままお風呂にいると全裸のままぶっ倒れそうだったから勇気を出してお風呂を出ることにした。

「長ぇな風呂」

 リビングに行くと高杉さんはソファーに座ってテレビを見ていたようだった。真っ赤な顔をした私を見て「ぷっ、茹でダコ」と笑い立ち上がる。そして私の前に立ったので大袈裟なくらい体をビクつかせてしまった。しばらく無言のまま私は床を、高杉さんはおそらく私を、お互い違うところを見下ろしていたのだけれど沈黙に耐え切れず口を開いたのは私だった。

「な、何か喉渇いたしコンビニ行ってこようかな〜高杉さん何かいります?」

 とにかくこの限られた空間を出て頭を冷やしたい。もちろん逃げるつもりはない。ただ、冷静になりたいだけ。床を見下ろしていたから自然と目の前に立っている高杉さんの足も目に入っていて、その足が動いたことで更に私は固まった。

「こんな遅い時間に一人で外行くな。何か飲みたいなら冷蔵庫。俺風呂入ってくる」

 私とは正反対に冷静な声で言った高杉さんは私の横をすり抜けてリビングを出て行った。ドアを閉める音が聞こえた瞬間私はその場にへなへなと座り込んだ。

「はぁ……」

 何やってんだろう、私。あんなに強引に一緒にいたいと言ったのは私なのに。本当はもっと余裕を持って高杉さんと向き合いたかった。高杉さんのことだ、きっと何人もの女性とお付き合いしてこの部屋にも何人も来たことがあるはず。こんなガチガチに緊張している女、心の中で嘲笑され面倒だと思われているに違いない。突然強引になったり突然ガチガチになったり、もし私が高杉さんならここに連れてきたことを、いや、今日私を飲みに誘ったことを後悔する。
 お風呂から上がった時、タオルと一緒に男物のTシャツとジャージが置いてあったことにドキドキした。そして高杉さんの匂いがする、そう思いながら身を包んだそれは私には当然大きくて、それにもまたドキドキして。自分一人だけが舞い上がっていることなどわかっていたはずだった。なのに、今明らかに大きなサイズの服を着ている自分の姿をリビングの姿見で見て。私はこれほどまでに滑稽で惨めなものを見たことがないと思った。

「ん……」

 そして、更に落ち込むこと。姿見に映った不自然にぐちゃぐちゃにされた袋の中から何かが覗いていた。私は姿見から目を離しそれを振り返る。見ちゃダメ、わかっているのに。

「っ、」

 そこには赤い女物の下着が入っていた。ピンク色の歯ブラシと、化粧落とし。これが高杉さんのものだと思うほど鈍感ではない。ここに、女の人が泊まったことがある。しかも、置いてあるということはそう遠くない過去に。わかってる、高杉さんはきっとモテるから、過去にここに連れてきた人がいることなんて、自分でもさっきそう思ったし、でも。

「……っ」

 自分の目で見るには痛すぎた。私は急いで彼の服を脱いで自分の服を着ると部屋を出た。そしてすぐにタクシーに乗り込んだ。あんなに強引に一緒にいたいと言ったのに、逃げるなんて最低。自分でもわかっている。もう高杉さんはきっと私に笑顔を向けてくれないだろう。そう思ったら悲しくて切なくて涙が溢れて止まらなかった。全部、自業自得なのだけれど。

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