01


 私の恋は夜の7時に始まり9時に終わる。ホテルで待ち合わせして体を重ねて、少し抱き合った後彼は一人で部屋を出て行ってしまう。振り返ることもせず行ってしまうその背中は既に私のことなど忘れて小さな子どもがいる『よき父親』のもので、簡単に切り替えることができる彼とその背中を見て落ち込み泣きたくなる私の違いに更に落ち込んで吐き気まで催すのだから末期だ。
 彼との出会いの舞台は我が社だった。総務部に所属する私は営業部の方と関わることはあまりない。なぜ取引先の営業である彼と私が出会ったかというと、彼が我が社に来ていた時にエレベーターにたまたま乗り合わせたのが私、ただそれだけのことだ。ダンディーでセクシーな年上の男、そんな人が鈍臭い私がエレベーター内でぶちまけてしまった資料を嫌な顔一つせず拾ってくれて、お礼を言えば食事に誘われて、断る理由など何一つなかった。簡単に彼に惹かれていった馬鹿な私は体を重ねるまで彼の左手の薬指に光る指輪に気づかなかったのだ。
 気づいた時私は奥さんのいる人を好きになってしまったことに絶望し彼ともう二度と会わないと決めた。深入りする前にやめようと思ったのだ。けれど、彼から電話がかかってきて、もう会わないと言った時に切なげに好きだと言われてしまえばしたはずの決意は簡単に薄れ、私は走った。彼の待つホテルの部屋へと。
 こんなに身を焦がすような恋をしたのは初めてだ。彼に会いたい、彼のそばにいたい、そう強く思うのに彼は私に背を向け奥さんと子どもが待つ家に帰ってしまう。離婚してほしいとは思う。けれど、彼が本当に離婚してくれるとは思っていない。現実を見てしまう年齢に自分はなってしまっているのだ。若ければもっと馬鹿な女になれたのかもしれない。

「……充分馬鹿か」
「ん?何か言った?」

 服を着ながら頭を撫でる彼に微笑み首を横に振る。額に軽いキスを落とした彼が今日は子どもの誕生日だからとか早く帰ってきてと頼まれているからとか色々な言い訳を並べているのを聞き流しながら、私は煙草に火をつけた。煙草、なんて。一生縁がないものだと思っていた。彼と、出会うまで。

「優紀」

 彼は私が吸い始めた煙草を奪い唇を奪う。初めて彼とキスした時苦いと思ったけれど、今は自分が喫煙者だから何も思わない。むしろ彼と溶け合うみたいで嬉しかった。

「愛してる。気をつけて帰るんだよ」

 帰らないで。
 行かないで。
 私のそばにいて。
 そう言えば彼はどんな顔をするだろう。怖くて試すこともできないけれど。

「須藤さん」
「ん?」
「口紅。ついてる」

 唇に残った私とのキスの証をティッシュで拭ってから、彼は出て行った。ゴミ箱に入り損なって床に転がったティッシュがまるで自分みたいで、私は一人ベッドに寝転び自らの体を抱き締めた。

***

「課長、チェックお願いします」
「はいよー」

 書類を渡せば課長はパソコンから目を離し書類に目を通し始めた。
 松永智之、31歳。この若さで課長なのだから当然仕事ができるのだと思う。部下からは人気があるし、上司からの信頼も厚い。けれど私は少しだけ苦手だ。その理由は。

「なー、三枝さー」
「はい」
「俺書類苦手なんだよねー。何つーか目、しょぼしょぼする」
「はぁ」
「今時紙ってないよね。このデジタルの時代にだよ?営業部なんかタブレット使ってんのにさ、なんでうちはまだ紙なの?それもこれもあの部長が機械苦手だから、とかとぼけたこと言うからだよな。あー、ほんと眠いわ、眠くなってくるわ」

 そう、この男、果てしなく緩いのだ。その上言動は何だか軽いし確かに仕事はできるけど私は苦手。理不尽に厳しい上司よりはいいのかもしれないけれど。

「はーい、これでいいよー」
「失礼します」

 礼をして自分のデスクに戻る。見直した書類にはいつの間に書いたのか訂正の赤ペンが入っていた。
 彼と付き合うようになってから、お弁当を作ることができなくなった。帰るのが遅いので朝早く起きることができないのだ。残業をすると彼と会える時間が減るので必死で仕事をこなすようになった。友達とランチする時間も惜しくて、コンビニで買ったおにぎりやパンを仕事をしながら食べる。そこまでしているのに報われない恋なのだからたまに泣きたくなることもある。でも、やめられない。一種の麻薬のようなものだと思った。

「優紀」

 不意に呼ばれた名前に振り向けばここにいるはずのない彼がいた。慌てて周りを見渡せばお昼に皆出払っていたので私一人だった。それに気づかず仕事に没頭していたことに驚きながら、頬張っていたパンを急いでデスクに置いた。

「すごく集中してたね。頑張り屋さんだな優紀は」
「そんなこと……」

 あなたに会える時間を減らしたくないから、そんな重いことは言えない。頭を撫でてくれる手に私は目を閉じた。

「来てたんですね」
「あぁ。またすぐ次行かないとだけど」
「忙しいんだ」
「君が癒してくれるから頑張れるよ」

 額に唇の感触。私はそっと彼のスーツを握った。誰か戻ってきたら。誰かに見られたら。大変なことになるのにそうなってしまえばいいと思ってしまう自分がいるのも確かだった。

「そろそろ行くね」
「はい」
「いつもの部屋で」

 名残惜しく彼のスーツを離した私の手とは対称的に簡単に離れていった彼の手はすぐにポケットに突っ込まれた。部屋を出て行く時に携帯を取り出し触っているのを見て、奥さんにメールでもしてるのかなと思いながら彼が触れた額に触れる。そこにはもう彼の温もりは残っていなかった。
 カタン、と小さな音が近くから聞こえたのはその時だった。心臓がドクドクと嫌な音を立てた。誰か、いる。固まる私の目に入ったのは、備え付けの給湯室から出てきたあの人だった。

「あー、ごめん。見るつもりなかったんだけど」

 気まずそうにコーヒーをかき混ぜながら給湯室から出てきた彼は私の前まで来て飲む?と持っていたコーヒーを差し出した。フルフルと弱々しく首を横に振る私にそっか、とだけ返して彼はコーヒーを口に含む。

「ずっ、と、いたんです、か」
「……うん、まあ」
「そ、です、か」

 バレてもいい、むしろバレてしまえばいい。そう思っていたのにいざバレてしまうと色々なことが頭を過って怖くなった。きっとこの会社にはいられないだろう。すぐ次の仕事が見つかるとは思えない。その前に、まず彼の奥さんに謝罪しなければ。彼の、奥さんに会って、そして……

「お願い、します」
「ん?」
「誰にも、言わないでください」

 自然と出た言葉は情けないほど震えていた。目の前にいる彼の顔を見ているつもりなのに滲んでしまって何も見えない。手足がガタガタと震えて無意識にスカートを握っていた。彼が口を開くまで、永遠とも思えるほど長い時間だった。きっと一分も経っていない、たったの数秒だったのだろうけれど、死刑宣告でも受けるような気持ちになっていた。

「まぁ、さ。別に言うつもりはないけど」

 はぁ、と安堵のため息を吐いたのも束の間、彼は信じられない言葉を口にした。

「バラされたくなかったら俺にもヤラセて」

 最低、その一言が頭を過った。上司の信頼は厚く、部下からも人気がある。苦手とはいえ一応尊敬していた上司にそんなことを言われて、私は先程とは違う意味で落ち込むのを感じた。受け入れるしかない。そう思いながらも、嫌悪感は消えず。

「セクハラです」

 思わず口走った言葉に彼はまた予想外の言葉を返した。

「だよねー」
「っ、はい?」

 やっぱり軽い。本当に軽い。聞き返した私に彼はキョトンとした顔をしていて、そんな顔したいのはこっちだよと心の中で突っ込んだ。

「ま、バレないようにねー」
「い、言わないでいてくれるんですか……?」
「バラしたところで俺にメリットなくね?」

 確かに、そうだけど……。さっきみたいに脅されることとか、あると思ったから……。私の戸惑いの理由に気づいたらしい彼は気まずそうに頬を掻きながら課長のデスクに戻った。

「俺そこまで性欲持て余してないからね」
「そう、ですか……」
「まぁもう彼女は二年くらいいないけどさー。て、あれ?もう二年?俺泣いていい?」

 眉をハの字にした課長に思わず噴き出した。ハハッと笑った私を見て、課長も笑う。

「最近ずーっとここに皺寄せてた理由がわかったよ」

 課長がツンツンと人差し指で押したのは自らの眉間。私はハッとしてそこを触った。そういえば最近、笑うことも忘れていたかもしれない。

「……やめろ、とか、言わないんですか?」

 誰かに止めてほしかったのかもしれない。そんなことを口走った自分に少し驚きながら眉間の皺を伸ばしていると、課長はパソコンを開き言った。

「三枝はちゃんとわかってるでしょ」

 それだけだったけど。何が言いたいかはすぐにわかった。不倫は悪いこと。誰も幸せになれない。誰かを傷つけるだけ。自分で、終わらせないといけない。

「……はい」

 俯いてくしゃっと前髪を握った私を見て、課長は微笑んだ。

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