私のアパートに着くと、高杉はタクシーを待たせたまま私を部屋の前まで送ってくれた。明日も早いのに付き合わせてしまったことを謝りたいのに、高杉は目を逸らしたままこっちを見てくれない。鍵を開けて私が部屋に入ったのを見ると「じゃあな」と言ってすぐに立ち去ろうとした。
「あのっ、高杉……」
「……なあ」
「……っ」
「落ち着いたらちゃんと、課長の話聞けよ」
「え……?」
「じゃあな」
何も言えないまま高杉の後ろ姿が見えなくなる。私は呆然としばらくそこに立ち尽くしていたのだけれど、明日も仕事であることを思い出して重い体を引きずるようにして部屋の中に入ったのだった。
次の日、考えすぎて睡眠時間がほぼ取れなかったのもあり体が鉛のように重い。考えないようにしようとすればするほど昨日の智之さんと綺麗な人が頭にちらついて。それに、最近はずっと智之さんと一緒に寝ていたからか、抱き締めてくれる温もりがないのも不眠の原因の一つだった。それでも社会人である以上会社を休むことなんてできない。頭をクリアにするために入ったシャワーも、シャンプーの香りが違うせいで私を更に落ち込ませる原因になっただけだった。
「ぷっ、ひでえ顔」
出社すると、そこにはいつもと全く変わらない高杉がいた。寝不足の顔を無理やりメイクで隠した私とは違い、全くいつも通りの高杉は私の顔を見てゲラゲラ笑った。昨日の話し掛けられるなオーラを出しまくっていた奴はどこへ行ったんだ……。
「あのね、高杉……」
「三枝さん」
謝罪しようとした私の言葉をまた誰かが遮る。振り向くとそこにいたのは須藤さんで、私の体は違う意味で強張った。私の後ろに座っていた高杉も、まるで警戒体勢の犬のようにピンとした空気を醸し出していた。
「ごめん、少しこっちを手伝ってくれないかな」
「三枝はうちのチームです」
「うん、今日だけ。ちゃんと部長に許可は貰ってるから」
反論しようとした高杉を制止する。あまり避けすぎても周りに怪しまれると思うから。私は高杉に笑顔を向けた。
「行ってくるね。私がいないと寂しいと思うけど泣くなよ」
ニヤリと笑ってあえて軽い言葉を言う。高杉は私の意図を汲んでくれたのか、軽くため息を吐いて私の頭にポンと手を置いた。
「お前だろ。俺がいないと一人で帰ることもできないくせに」
「ち、違うでしょあれは……っ」
「缶ビールで手を打ってやるよ、これで貸し借りなしな」
それが昨日遅くまで付き合わせてしまったことへのフォローだと気付いて。もう、本当に。
「安すぎるよ、馬鹿」
高杉の優しさに涙が出そうになる。高杉は本当に、私に甘すぎる。
須藤さんのところで任された仕事は主に事務作業だった。このプロジェクトの一番の主軸であるこのチームでは、皆寝る間も惜しんで作業をしているらしい。今日が企画提出の締め切り日らしく、事務作業をしている暇がないみたいだ。
「いつもしてる仕事に比べたらやりがいないかもしれないけど、お願い」
須藤さんはそう言って苦笑いした。けれど、私は事務作業も嫌いじゃないし、忙しいながらも目を輝かせて仕事をしている人たちを見ていると刺激になる。少しでも役に立てればと、私も自分の仕事に集中した。
「そろそろ休憩にしよう」
須藤さんの言葉で皆の緊張が一気に解けてそれぞれに部屋を出て行く。時計を見れば14時前で、高杉は既に昼ご飯を食べ終えた後だろうしどうしようかなととりあえず財布を持った。
「お疲れ様」
「あ、お疲れ様です」
立ち上がろうとした私のPCを須藤さんが覗き込んでくる。そして「え、」と言って固まった。まさか何かミスをしているのではないかと思い不安になって「何か……」と聞くと、須藤さんは驚いた顔のまま振り向きふっと笑った。
「いや、速すぎてビックリしただけ」
「え」
「優紀、君に頼んでよかった」
私たち以外誰もいない部屋。呼び捨てにされた名前とポンと頭に乗せられた手。固まって動けない私はじっと須藤さんの顔を見た。……好きだった。全てを犠牲にしてもいいと思うくらい。禁断の関係に酔っているだけかもしれないと思ったこともあるけれど。私はきっと本当に、この人自身が好きだった。
「あのー……」
突然聞こえた声にびくっと体を強張らせて慌てて離れた。ドアのところで遠慮がちに私たちを見ていたのは、
「と、課長……」
名前で呼びそうになって慌てて課長と呼ぶ。見られたくないところを見られた気まずさと、昨日あんなことがあった気まずさ。気まずさ以外ない私たちはしばらく押し黙っていた。
「えーっと……高杉、どこかな」
「えっ、た、高杉は……」
どこだろう。いつもの部屋にいなかったのか聞くと、智之さんはいなかったと答えた。それならどこにいるのかはわからない。すみません、と頭を下げると智之さんは慌てて手を振った。
「いやいや、謝らないといけないのはこっちで……」
それが昨日のことを言っているのだと分かって手が震える。顔を上げられない私の目の前に、ビニール袋が差し出された。
「これ、差し入れ。よかったら食べて。俺高杉探してくるから、じゃあな」
「あ、ありがとうございます……」
袋を受け取った私を見て智之さんは安心したように笑って去って行く。袋の中には、おにぎりと栄養ドリンクとコンビニスイーツが入っていた。全部私の好きなものだったから。微笑むと同時に涙が出そうになったのだった。
***
資料室を出たところで、今会うのは何となく気まずい人と鉢合わせした。
「お、高杉いた!」
鉢合わせというか、俺を探していたらしい。不機嫌な顔を隠すのを忘れたままとりあえず上司なので「お疲れ様です」と言うと、課長は苦笑いした。
「隠しきれてないよ」
あ、と慌てて無表情を取り繕った俺に課長はまた笑う。そしてビニール袋を差し出した。
「これ、昨日のお詫び。夜中まで付き合わせて悪かったな」
袋の中身を見ると、おにぎり二つと栄養ドリンク、そして缶ビール。帰る頃には温いと思うけど、ごめんな、課長はそう言って去って行く。俺はその背中に慌てて声を掛けた。
「あの、三枝のこと、どう思ってるんですか」
資料室は最近はあまり使われない上に少し薄暗い。人が近寄りにくいことを分かっているけれど、誰も来ないとは限らない。あえて声を落とすことなく普通に聞くと、課長は振り向いた。また、苦笑い。
「好きじゃなかったら付き合わないよ」
「昨日の人は」
「あー……、説明すると長くなるけど、何もない」
「じゃあ、アイツのこと泣かせたりしませんよね」
俺が見て来たのは、圧倒的に笑顔より泣き顔が多い。笑顔と言っても無理して笑っているばかりで笑顔とも言えないようなものだった。こっちに来て再会して、初めてと言っていいくらいアイツが心の底から幸せそうな顔をしているのを見た。笑顔ではないけれど、手を繋いで、キラキラと光る課長を見る目。俺はもう、アイツの辛そうな顔を見たくない。
「……うん、俺はそのつもり」
「……そこは格好よく絶対泣かせないとか言うところじゃないんですか」
「だって、選ぶのはあの子でしょ」
「……。何かあったんですか」
課長は一瞬黙って何か思い出したかのように眉をひそめ不機嫌そうな顔をした。こんなにコロコロとこの人の表情が変わるのを初めて見た気がする。
「……高杉が触ってんのも腹立つけどさ、あの人に触られてんのが一番ムカつく」
「え?」
「優紀って、まさかまだあの人のこと好きなのかな。高杉どう思う?」
『あの人』が誰を指しているのかに気付いて深いため息を吐く。ほんと、腹立つのはこっちだっつーの。
「二人揃って同じようなこと言ってんじゃないスよバカップルが」
「え?」
「後は二人で話してください。ほんと面倒くさい」
課長を置いて歩き出す。後ろから戸惑う声が聞こえたけれど無視した。ほんと、俺って損な役回り。