02
 次の日、いつものように電車に乗る。マナーの悪い乗客にイライラしても気分が悪くなるだけだし、満員電車では無心になるように努力している。その日も俺は菩薩のような心持ちで優先席にどっかりと座るおっさんを見下ろし、通路に座る高校生を言葉通り見下し、立ちながら化粧をし始めた猛者に心の中で敬礼し、立っていた。

「あの、その優先席、こちらのおばあちゃんに譲っていただけませんか」

 聞こえてきたのは若い女の子の声だった。偉いよ、確かに。ただそういう正義感の強い人間は煙たがられる傾向にあるのが今の日本だ。実際関わりたくなくて見て見ぬフリをしていた人間のほうが多いわけだし(俺も含めて)、トラブルには巻き込まれたくないというのが人間の心理だ。迷惑そうな視線を向ける周りに釣られて俺もそちらを見る。そして言葉を失った。

「あの、おじさん。聞こえてますか」

 おっさんに声をかけていたのが昨日話しかけてきた女の子だったからだ。女の子はおばあさんを支えながら、無視するおっさんの顔を覗き込み何度も声をかける。俺の隣に立っていた化粧女が舌打ちをした。

「おじさ、」
「うるせぇな!」

 あまりにしつこいあの子にとうとうおっさんが切れた。そして座ったままあの子を睨み付ける。

「早い者勝ちだろうが!こっちは朝早く起きて夜遅くまで働くんだ!ババァは家で寝てろ!」

 ……さすがに、菩薩ではいられないな。あの子はおっさんを見つめて口を開いた。

「ではあなたもご老人になったらずっと家で寝てるんですね」
「ああ?」
「ジジィは家で寝てろ。そう言われても平気なんですね」

 顔に似合わずどこまで気が強いんだ。驚きながらもあの子の元へ向かう。すみません、と人を掻き分け迷惑そうな顔をされながら。さっきまで俺もそっち側だったはずなのに。あの子の正義感に感化されたとでも言うつもりか自分よ。……ただ、ちょっと顔見知りの女の子が勇気を出しているのに男の俺が見て見ぬフリをするのはカッコ悪いかな。そう思っただけだ。

「女が生意気なんだよ……!」
「ちょーっと待っておっさん。こんな若い子怒鳴りつけて恥ずかしいと思わないの。しかもここ、電車の中」

 横からあの子とおっさんの間に入った俺を見上げて、後ろであの子が息を呑んだ気配がした。おっさんは突然横入してきた俺に一瞬怯んだが、プライドのせいで後に引けなくなっているのだろう。顔を真っ赤にして俺を押しのけようとした。

「あんたには関係ないだろう!」
「確かに関係ないけど、若い女の子が頑張ってんのに放っとくのもなって思うじゃん」

 面倒だ。本当に。この後必死でやってきたプロジェクトを社長の前でプレゼンする大事な会議があるっつーのに。そっちに集中してぇって思うのに。ただ人のために何かをするってのも、悪くない。

「ここにいる人みんな見てるから。おっさんの味方する人誰一人いないと思うけど。どうする?」
「おっさん恥ずかしいよ」

 俺に同調したのは俺の隣で立ったまま化粧をしていた女だった。……いや、あんたも人のこと言えないけどね。ただ、その女の言葉が決め手となっておっさんは席を立った。あの子が支えていたおばあさんをその席に座らせてあげると、涙目で俺を見上げる彼女と目が合った。

「あの……ありがとうございます!!」
「いや、別にあんたのためにやったわけじゃ……」
「王子様みたいで素敵でした!!」

 お、王子様って……。周りから感じるのは好奇の視線と、彼女を助けたのかな、すごいね、なんていう勝手なヒソヒソ話だった。

「あ、あの、お名前教えていただけませんか?」

 完全に周りの空気を味方にした彼女がキラキラとした瞳で俺の答えを待つ。羞恥心と後悔、居心地の悪さを感じた俺は断ることもできず名前を言った。

「慎也さん……。私、柳瀬若菜です。若菜って呼んでください!」
「……はあ……」
「あ、降りる駅ですよ!」

 彼女は意気揚々と電車を降りる。そして嬉しそうに手を振って去っていった。完全に彼女のペースに呑まれている。周りの視線に勘弁してくれと肩を落としながら俺も歩き出したのだった。
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