神谷くんの好きなひと

「向井さん」

 透き通るような甘いテノールが私を呼んで、衝撃を受けたのは私だけでなかったようだ。今まで学校で話したことのない二人が、しかも男の子の方は学校で一番の美男子である、教室で話していたら空気が固まるらしい。教室にいた全員が私たちに注目していた。

「お昼、一緒に食べない?」
「えっ」
「いや?」

 首を傾げ、子犬のように私を見る神谷くんに私は必死で首を横に振った。
 校内ではどこにいても目立ってしまう。神谷くんと一緒にいるだけでどこか夢見心地でポワンとしてしまう私は、その視線の中に嫉妬が含まれていることなど気付きもしていなかった。

「今日、行ける?」
「うん、行くつもり」
「なんかごめんね。俺のせいでバイトまでさせて」
「えっ、う、ううん、元からバイトしたいと思ってたし、逆に紹介してくれてありがとう、みたいな、はは……」

 バイトをしようと思っていたのは本当のことだ。だからCafe fleurで働けるのは嬉しい。翔さんのことは落とせる気がしないけど。

「今日のご褒美は何がいい?」

 ふわりと神谷くんが微笑む。こんなに美しいのに、いつも悲しげなのがずっと気になっていた。

「神谷、くん」
「ん?」
「一緒にいられるだけで、いい」

 神谷くんは驚いたように目を丸くした。そこでやっと自分がとんでもなく恥ずかしいことを言ったのに気付いて、必死でごまかす。違うの、あの、違うくないけど、あの、なんて。神谷くんの長い指が私の髪を一束掬った。

「向井さんって馬鹿だね」
「ええっ」

 神谷くんが笑う。その時初めて、明るくて無邪気な笑顔を見たんだ。

 その日の夕方、私は神谷くんに送られてバイトに来た。細い路地を抜けて、突然現れる砂漠の中のオアシスのようなお店。繋いでいた手が、離れかけた時だった。

「あれ、友くん?」
「えっ」

 神谷くんを名前で呼んだ女性に、神谷くんは大袈裟なくらい反応した。その人を見て、神谷くんは「げっ」と嫌そうな顔をする。彼女は神谷くんの次に私を見て、そして繋がれたままだった手を見た。

「ふーん」
「……なに」
「何でもないよ。ただ、友くんに彼女が出来るなんてビックリだなーと思って」
「うるさいな!どっか行け!」
「はいはい」

 神谷くんは顔を真っ赤にして、私の手を振りほどくように離した。いつもクールで美しく儚げに微笑む普段の神谷くんからは想像できないような動転ぶり。誰なんだろう。そう思って神谷くんを見ていると、ハッとしたように私を見た。私がいること、忘れてたのかな。

「友達の姉ちゃん。あの人と付き合ってんだって」

 ああ、何となく分かってしまった。神谷くんがあの人を落とせって言った理由。神谷くんはきっと、彼女が好きなんだ。だから、あの人から彼女を取り戻したいんだね。

「……そっか」

 失恋が決定したのに、彼のそばにいたいと思う私は本気の馬鹿だと思う。

「あれ、さっきの」
「あ……、向井一香です。ここでバイトさせていただくことになりましたっ」
「大橋彩香です。よろしくお願いします」

 お店に入ると、さっきの彼女が更衣室で制服に着替えていた。この人が、神谷くんの好きな人。ぼんやりと彼女を見つめていたら、不思議そうに見つめ返されてしまった。

「あっ」
「私もバイト始めたばかりだからあんまり偉そうなこと言えないけど。頑張ろうね」
「は、はい!」

 神谷くんの好きな人は、とてもいい人だ。
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